伝記
ソクラテス・ブラジレイロ・サンパイオ・ジ・ソウザ・ヴィエイラ・ジ・オリヴェイラは、1954年2月19日にブラジルのベレンで生まれた元サッカー選手で、元ブラジル代表である。ギリシャ哲学を崇拝していた父にちなんでソクラテスと名付けられた。きょうだいは全部で6人の兄弟で、ほかにも古代の人物の名をつけられた兄弟がいたという。11歳下の実弟ライーも、のちにブラジル代表の主将を務め、1994年のワールドカップで優勝している。プロ選手には珍しく医師免許を持っていたため、「ドトール」、つまり医師の愛称で呼ばれた。
17歳のころ、公務員だった父の転勤で一家はリベイロン・プレトに移った。ボタフォゴ-SPの下部組織に入ったのは16歳のときで、その翌年にサンパウロ大学のリベイロン・プレト医学校に入学し、学業を優先して練習にはほとんど参加しなかった。それでも試合では高い能力を示し、神童と見られた。1974年にトップチームでデビューし、有力クラブからの誘いが殺到したが、プロ選手として過ごしながら単位を取り、23歳で大学を卒業するまでクラブにとどまった。1976年のパウリスタ選手権では15得点で得点王となっている。
1978年、サンパウロのコリンチャンスに移ると、すぐに中心選手となり、6シーズンで297試合に出場して172得点を挙げた。1979年にはパウリスタ選手権で最初の大きな優勝を果たし、同じ年の5月にブラジル代表デビューを飾った。当時のクラブでは、選手自身が議論して採決する「コリンチャンス・デモクラシア」という自主管理の試みが行われ、ソクラテスはその発起人であり中心人物でもあった。軍事独裁下の時代に、クラブの運営に関わる決定を選手の投票に委ねるという運動だった。1983年には南米年間最優秀選手賞に選ばれた。
代表では、テレ・サンターナ監督のもとでジーコと並ぶプレーメーカーとして起用された。1982年のスペイン大会では主将を務め、ジーコ、ファルカン、トニーニョ・セレーゾとともに組んだ中盤は「黄金のカルテット」と呼ばれた。1次リーグ初戦のソビエト戦で得点し、2次リーグのイタリア戦でも1点を挙げたが、2対3で敗れて大会を去った。1983年のコパ・アメリカは決勝でウルグアイに敗れて準優勝だった。1986年のメキシコ大会でもスペイン戦とポーランド戦で得点したが、準々決勝でフランスにPK戦の末に敗れた。代表では1986年6月までに60試合に出場して22得点を記録し、ワールドカップを2度、コパ・アメリカを2度経験したものの、タイトルには届かなかった。
1984年には政治的な信念から、イタリアのフィオレンティーナへ移った。しかし1シーズンで9得点にとどまり、期待に応えられずにブラジルへ戻った。その後はフラメンゴやサントスでプレーし、1989年に古巣のボタフォゴ-SPで現役を退いた。2004年には50歳でイングランド下部リーグのクラブと短期契約を結び、途中出場で12分間プレーしている。引退後は新聞や雑誌のコラムニストを務め、政治や経済にも意見を述べた。長年の飲酒と喫煙で体を損ね、2011年12月4日、腸内感染症による敗血症で死去した。
同じ年に亡くなった人物
- アン・マキャフリイ (2011年没)
- ポーレット・デュボスト (2011年没)
- ワルター・ギラー (2011年没)
- ゲイリー・ムーア (2011年没)
- マウゴジャータ・ディデック (2011年没)
同じ地域に関係する人物
- ドンジーニョ (1996年没)
- ペレ (2022年没)
- オズバウド・フメイロ・アウバレス (2020年没)
- Euclydes Barbosa (1988年没)
- レオニダス・ダ・シルバ (2004年没)