HISTORICAL PERSON · 2011年没

ジョン・マッカーシー

アメリカの計算機科学者。1955年の提案書で初めて「人工知能」という用語を使い、プログラミング言語を開発してタイムシェアリングの概念も一般化させた。

生涯
2011年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / スタンフォード)
出生地
アメリカ合衆国(ボストン)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

ジョン・マッカーシーは、1927年9月4日にマサチューセッツ州ボストンで生まれたアメリカ合衆国の計算機科学者で、認知科学者である。マービン・ミンスキーと並ぶ初期の人工知能研究の第一人者で、1955年に提出した提案書で、初めて「人工知能」という用語を使った。父はアイルランドからの移民、母はリトアニア系のユダヤ人移民であった。世界恐慌のころは住まいを転々としていたが、父が労働組合に職を得て、ロサンゼルスに定住した。両親はともに都市を中心に活動する共産主義者で、その影響を受けて、彼もアメリカ共産党の細胞に入ったことがあった。だが、プラハの春で幻滅してからは、保守的な共和党の支持者に転じたという。

幼いころに読んだミハイル・イリーンの著書『十万の質問』で、科学に関心を抱いた。ロサンゼルスの高校を2年早く卒業した。数学が得意で、十代のころに近所のカリフォルニア工科大学で使っている教科書を手に入れ、独学で大学の水準の数学を学んでいた。1944年に同大学に入ると、数学では最初の2年間を飛び級した。しかし体育の授業に出なかったため、大学から追い出された。そこで陸軍で兵役を勤め、再入学を認められて、1948年に数学の学士号を得て卒業した。この大学で講演したジョン・フォン・ノイマンから、将来の方向について影響を受け、直接会って助言も受けた。卒業後も学び、プリンストン大学に移ってソロモン・レフシェッツに師事し、1951年に数学の博士号を取得した。

プリンストン大学に短く勤めた後、1955年にダートマス大学の助教授となり、さらにマサチューセッツ工科大学(MIT)に移って、1962年にスタンフォード大学の教授となった。2000年に引退するまでスタンフォードに勤め、その後は名誉教授であり続けた。MITのころには、すでに学生から愛情をこめて「アンクル・ジョン」と呼ばれていた。1956年には、人工知能に関する世界初の国際会議にあたる夏期研究会を、ダートマス大学で主催した。人工知能のために数理論理学を使って知識を表現することに力を注いだ。この会議に参加したミンスキーも人工知能の研究者となり、1959年にMITで人工知能のプロジェクトを立ち上げた。マッカーシーはアルゴルの設計委員会の委員を務め、1958年には「助言を受ける者」という考えを提案し、これは後の質問応答システムや論理プログラミングに影響を与えた。1959年には、ガベージコレクションの技法を考案し、ラムダ計算に基づく言語リスプは、1960年に発表されて、人工知能用の言語として使われるようになった。

1961年にMITの100周年の式典で、タイムシェアリングの技術が、水道や電力のように計算機の能力を売るビジネスを生むかもしれないと述べた。この「コンピュータ・ユーティリティ」という考え方は、1960年代後半に大いに人気を集めたが、当時の技術が未熟であったため1970年代半ばに消え、21世紀にクラウドコンピューティングとして再浮上した。1966年には、指導した学生が開発したチェスのプログラムが、ソ連のプログラムと史上初のコンピュータ同士の対戦を行い、結果は2敗2分だった。1969年にはパトリック・ヘイズと、フレーム問題を提唱した。1971年にチューリング賞、1988年に京都賞、1990年にアメリカ国家科学賞を受けた。3度結婚し、2度目の妻ヴェラ・ワトソンは登山家で、1978年にアンナプルナの登頂をめざして滑落死した。2011年10月24日に死去した。84歳であった。

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