伝記
デニス・マカリスター・リッチーは、1941年9月9日にニューヨーク州ブロンクスビルに生まれたアメリカ合衆国の計算機科学者である。父アリステアはベル研究所の研究者で、スイッチング回路についての共著書がある。子どものころに家族とともにニュージャージー州へ移り、サミットの高校に進んだ。ハーバード大学で物理学と応用数学の学位を得たのち、1967年にベル研究所の計算機科学研究センターで働き始めた。1968年にはハーバード大学での指導のもと、「プログラム構造と計算複雑性」を主題とする博士論文を書いたが、正式な博士号は授与されなかったともいわれる。この論文の写しは、紛失したと考えられていたが、2020年にコンピュータ歴史博物館が見つけている。
1960年代、リッチーはケン・トンプソンとともに、オペレーティングシステムのマルティックスの開発に取り組んでいた。1969年ごろ、二人はベル研究所で放置されていたPDP-7の上に独自のオペレーティングシステムを作り始め、これがのちにユニックスと呼ばれるものの原型となった。原型は1969年にできあがり、1971年にはPDP-11/20に移植された。このシステム上でアプリケーションを作るため、トンプソンがB言語を開発し、リッチーがそれにデータ型と新しい文法などを加えてC言語を作り上げた。1973年には、それまでアセンブリ言語で書かれていたユニックスをC言語で書き換えることに成功した。当時のユニックスは文書処理用のマシンとして使われ、おもにベル研究所の特許事務に用いられていたという。最初はPDP-11の構造への依存が大きかったが、依存は徐々に減り、1978年にはDEC製以外の計算機への移植にも成功した。1978年には、ブライアン・カーニハンとの共著『プログラミング言語C』も出版されている。
功績は広く認められた。1983年にはユニックスの実装への貢献でトンプソンとともにチューリング賞を受け、1990年には電気電子学会のハミング・メダルを、やはりトンプソンとともに受けた。1997年にコンピュータ歴史博物館のフェローに選ばれ、1999年4月にはクリントン大統領から1998年アメリカ国家技術賞を贈られた。2005年に産業界の研究機関から功労賞を受け、2011年には日本国際賞を受賞している。2019年には全米発明家殿堂にも選ばれた。晩年もベル研究所で、分散システム用のOSであるプラン9やインフェルノ、その言語リンボの開発に携わった。やがて組織の再編でルーセント・テクノロジーズに移り、2007年にシステムソフトウェア研究部門を率いる立場で引退した。技術者の間では、ベル研究所でのアカウント名にちなんで「dmr」と呼ばれることがある。
2011年10月12日、ニュージャージー州バークレーハイツの自宅で、ひとり亡くなっているのが見つかった。第一報は元同僚のロブ・パイクが発表し、前立腺癌と心血管疾患による長い闘病の末だったという。その死は、スティーブ・ジョブズの訃報の約1週間後で、ジョブズほど大きく報じられることはなかった。コンピュータ史家のポール・セルージは「顕微鏡でコンピュータの中を見ることができたなら、彼の仕事をあらゆる箇所で見つけるだろう」と述べた。カーニハンは、リッチー自身はC言語がこれほど重要になるとは思っていなかったと語っている。
同じ年に亡くなった人物
- スザンナ・ヨーク (2011年没)
- クルト・ザンデルリング (2011年没)
- サティヤ・サイ・ババ (2011年没)
- 沢田泰司 (2011年没)
- ヴィットリオ・アリゴーニ (2011年没)
同じ地域に関係する人物
- ジェームズ・レブホーン (2014年没)
- フリッツ・マハループ (1983年没)
- モー・バーグ (1972年没)
- フレデリック・セオドア・フリーリングハイゼン (1885年没)
- ジョイス・ブラザーズ (2013年没)