伝記
ウィリアム・ナン・リプスコム・ジュニアは、1919年12月9日にオハイオ州クリーヴランドで生まれたアメリカ合衆国の化学者である。父は医師で、祖父も曾祖父も医師だったが、母は主婦で、幼いころは音楽を教えていたという。一家は1920年にケンタッキー州レキシントンへ移り、彼は1941年にケンタッキー大学で化学の学位を得るまでここで過ごした。少年期には動物や昆虫、岩石や鉱物を集め、天文学への関心から大学の天文台の見学会に通って、教授のH・H・ダウニングと生涯の友となった。12歳で小さな化学実験セットを贈られると、器具や薬品を取り寄せ、医師である父の特権を使って薬局で薬品を割引で買い足し、自作の花火で客を楽しませた。後年の生化学研究には、父の書庫にあった医学書を読みふけった経験が影響したと本人は述べている。
高校の化学教師フレデリック・ジョーンズは、大学の教科書を貸してくれた。リプスコムは授業中、教室の後ろで自分なりの実験をしていたという。物理の課程でも州の競技会で一位を取り、特殊相対性理論にも強い関心を抱いた。大学へは音楽の奨学金で進み、ロバート・H・ベイカー教授の示唆でアルコールの誘導体を直接つくる研究に取り組んで、これが最初の論文になった。大学院には、月20ドルの物理学の助手職を示したカリフォルニア工科大学を選び、月150ドルの研究助手職を示したノースウェスタン大学の申し出は断った。当初は物理学科の理論量子力学を志したが、1学期でライナス・ポーリングの影響を受けて化学科へ移った。第二次世界大戦中は、煙の粒子の大きさの分析や、ニトログリセリンとニトロセルロースの推進薬の研究に従事し、純粋なニトログリセリンの小瓶を何度も扱ったという。1946年に化学のPh.D.を取得し、指導教授はポーリングだった。
1946年から1959年までミネソタ大学で教え、1959年にハーバード大学の化学の教授となった。1990年からは名誉教授である。研究は、核磁気共鳴と化学シフト、ホウ素化学と化学結合の本質、巨大な生体分子の三つの分野に大別される。少なくとも最初の二分野では、失敗しそうなほど大きな課題を自分に課し、そこへ至る中間目標の道筋を描いて進めたとされる。1950年代にはX線結晶構造解析を使ってボランの分子構造を推定し、その化学結合を説明する理論を築いた。この理論は後にさまざまな問題の解決に応用され、のちにノーベル賞を受けるロアルド・ホフマンが指導を受けたカルボラン酸の研究もそのひとつである。晩年にはタンパク質、とりわけ酵素の原子配置に関心を向けて研究した。
1961年に全米科学アカデミーの会員に選ばれ、1971年にセンテナリー賞、1973年にピーター・デバイ賞、1976年にレムセン賞とノーベル化学賞、1987年にシュレーディンガー・メダルを受けた。イグノーベル賞の常任のプレゼンターも務めている。私生活では1944年にメアリー・アデル・サージェントと結婚して三人の子をもうけたが、うち一人は生後数時間で亡くなった。1983年にジーン・エヴァンスと再婚し、養女を迎えた。2011年4月14日、肺炎と合併症のため、住み続けたマサチューセッツ州ケンブリッジの病院で亡くなった。91歳であった。
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