HISTORICAL PERSON · 1882年没

ラルフ・ワルド・エマーソン

アメリカの思想家・詩人。ユニテリアンの牧師を辞して渡欧したのち、個人主義を唱えてアメリカ文化の独自性を主張し、超絶主義を先導した。

生涯
1882年没
死亡地
アメリカ合衆国(マサチューセッツ州 / コンコード)
出生地
アメリカ合衆国(ボストン)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(マサチューセッツ州)

伝記

ラルフ・ウォルドー・エマーソンは、1803年5月25日にマサチューセッツ州ボストンで生まれ、1882年4月27日に没したアメリカ合衆国の思想家・作家・詩人であり、超絶主義の先導者である。両親は、ユニテリアン派の聖職者ウィリアム・エマーソンと母ルース・ハスキンスで、成人した5人の息子の2番目であった。1811年5月、8歳になる10日ほど前に父が胃癌で亡くなり、一族の女性達に助けられた母に養育された。叔母のマリー・ムーディ・エマーソンは、とくに深く彼に影響を与え、1863年に亡くなるまで文通を続けた。1812年にボストン・ラテン・スクールに入り、1817年8月、14歳でハーバード大学に入学した。学費をまかなうために仕事もして、4年のときには、ミドルネームのウォルドーを使うことに決めた。1821年8月29日の卒業式では自作の詩を発表した。この卒業礼拝で、スウェーデンボルグに強い影響を受けた学生サンプソン・リードのスピーチに深い感銘を受け、原稿を書き写して宝物にしたことが、生涯続くスウェーデンボルグへの関心の契機になったと考えられている。59人の級友のちょうど中位で卒業した。

卒業後は教師として生計を立て、その後ハーバード神学校に進んだ。弟エドワードは精神の崩壊に苦しみ、1834年に結核で亡くなったとみられる。1836年にも弟チャールズが結核で他界し、数年のうちに若い近親者を3人失った。1827年のクリスマスに出会ったエレン・ルイザ・ツッカーと結婚したが、すでに結核に冒されていたエレンは、1831年2月8日に20歳で亡くなった。エマーソンはこの死に痛く衝撃を受け、毎日墓地を訪れたという。ボストン第二教会の助任牧師として1829年に職位を授けられたが、ユニテリアンの合理性に満足できず、教会の形式主義に疑問を感じ、1832年に職を離れた。「このようにしてキリストを讃えることは、私には合っていない」と記している。

1833年にヨーロッパを旅行し、のちに1856年の『イギリスの特質』に書いている。イタリアで数か月を過ごし、パリの植物園では、事物の相関関係に大きな感銘を受けた。イギリス北部ではワーズワース、コールリッジ、カーライルと出会い、カーライルにはとくに強い影響を受け、1881年にカーライルが亡くなるまで文通を続けた。1833年8月にアメリカへ帰国し、1834年にコンコードへ移り、講演者を職業にできると考えた。生涯で1,500回余りの講演をすることになる。1835年にリディア・ジャクソンと結婚し、コンコードの家に住み、のちにワルド、エレン、エディット、エドワード・ワルドの4人の子をもうけた。

スウェーデンボルグ神学の強い影響を受けて、当時の宗教的・社会的信念から次第に離れ、1836年に匿名で汎神論的象徴主義による評論『自然』を出版し、超絶主義運動のバイブルとなった。同じ年に超絶クラブの集まりが企画され、運動の中心となった。1837年には「アメリカの学者」を演説し、オリバー・ウェンデル・ホームズ・シニアはこれをアメリカの「知的独立宣言」と評した。『評論集 第一集』『第二集』を1841年と1844年に出版し、「自己信頼」「円」「詩人」「経験」などが収められた。自身の中心教義を「個人の無限性」と語った。ヘンリー・デイヴィッド・ソローの師であり友でもあり、その評論は後の思想家、著述家、詩人に大きな影響を与えた。

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