伝記
フラウィウス・バウトは、4世紀のフランク人で、ローマ帝国の政治家・軍人である。385年に執政官を務めた。生年は分からず、遅くとも388年までに没したとされる。ライン川の東岸で育ったといわれ、フランク人の貴族の家に生まれてローマ帝国に定着し、ローマ市民権を持っていたようである。カール・フェルディナント・ヴェルナーは、その高い出自のおかげで軍の将校として経歴を始め、のちに高位に上ったと述べている。
家族については諸説がある。ヨハンネス・アンティオケイアの年代記によれば、バウトはアルボガストの父で、リコメルの甥にあたる。この記述をもとに、クリスティアン・セッティパニは、バウトがリコメルの姉妹を妻にしたと考えている。ジャン=ピエール・ポリは、ゲルマン語の人名の研究から、358年にカリエットに捕らえられたカマウィ人の王子ネビガストの近親、おそらく兄弟で、バウトの名はバウドガストの短縮形だと推測する。ただし現代の歴史家は、アルボガストをバウトの子とする説を疑わしいとしている。
ウァレンティニアヌス1世の没後、バウトは同じフランク人のメロバウデスやリコメルらとともに、幼い二人の皇帝グラティアヌスとウァレンティニアヌス2世の後見人として政務を代行した。377年ごろから、蛮族との争いに苦しむ東方皇帝ウァレンスを助けるため、グラティアヌスによって東方へ派遣され、東西の連合軍を指揮してゴート人の集団と幾度も戦った。378年にはラエティアでアレマン人にも勝利している。同年ウァレンスがハドリアノポリスの戦いで戦死したのちも、西の宮廷から後任として来たテオドシウス1世を支え、382年ごろまで各地を転戦して東方の混乱の収拾に努めた。別の記述では、東方へはアルボガストとともに380年に送られ、その成功がテオドシウスのフランク人将校への評価を高めたとされる。380年には西半のマギステル・ミリトゥムに任命された。
383年にブリタンニアの軍団がマグヌス・マクシムスを皇帝に宣言してグラティアヌスを殺害すると、バウトはテオドシウスの軍を率いてマクシムスと対陣した。しかしマクシムスと旧知の間柄だったテオドシウスには争う意思がなかったようで、ミラノ司教アンブロシウスを調停役にして和議を結んだ。翌384年にはテオドシウス自らイタリアへ赴き、マクシムスを共同皇帝と認めるようウァレンティニアヌス2世を説得した。講和ののち、バウトは西の宮廷に戻り、ウァレンティニアヌス2世の後見人として西方の防衛に専念した。385年に執政官となったが、まもなく没した。テオドシウスは自分の子アルカディウスを皇帝とし、その年の執政官にバウトを同僚として任じたとも伝えられる。387年にマクシムスがイタリアを奪い、ウァレンティニアヌス2世を追うと、アルボガストはマクシムスに加わったが、バウトがどちらの陣営に付いたかは分からない。
バウトは古代ローマの伝統宗教の熱心な信者だった。ミラノ司教アンブロシウスとは友人だったが、382年にアンブロシウスがグラティアヌスを威迫して元老院から古代ローマの祭壇を撤去させたときには、これに反対した。384年には首都長官らとともに、祭壇を元老院に戻すようウァレンティニアヌス2世に働きかけてもいる。娘は395年にテオドシウス1世の長男アルカディウスと結婚し、401年に後の東ローマ皇帝テオドシウス2世を生んだ。
同じ年に亡くなった人物
- サムドラグプタ (380年)
- ユリウス・フィルミクス・マテルヌス (380年(推定))
- フェストゥス (380年没)
- Evagrius of Constantinople (380年)
- アエリウス・ドナトゥス (380年)
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