HISTORICAL PERSON · 383年没

聖ウルスラ

ケルンで殉教したと伝わる伝説上の聖女。1万1千人の侍女と共にフン族に襲われ命を落としたとされる伝承で広く知られたが、実在性は疑問視されている。

生涯
383年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ノルトライン=ヴェストファーレン州 / ケルン)
出生地
イギリス連邦(コーンウォール)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ノルトライン=ヴェストファーレン州)

伝記

聖ウルスラは、ブリタニア出身のキリスト教徒の聖女として語られる伝説上の人物である。名は「小さな雌熊」を意味し、383年頃に没したと想定されている。しかし伝説の発祥の地はドイツのケルンである。1万1千人の処女をめぐる伝説の中心人物で、この伝説は9世紀に起源をもち、のちにケルンの小礼拝堂で墓石が発見されたあと、13世紀になって伝承が変わり、大きく膨らんだ。ケルンの墓石は、後にウルスラという名の八歳の少女のものとされた。

伝説は歴史的な背景をおそらくもたないと考えられている。それによると、ウルスラはローマ系ブリトン人の王女で、南西イングランドのドゥムノニア王国の父王ドノートの求めに応じ、異教徒であるアルモリカ(ブルターニュ)の総督コナン・メリアドクと結婚するため、1万1千人の処女の侍女たちとともに船出した。奇跡の嵐のおかげで一行はわずか一日で海を渡ってガリアの港に着き、そこでウルスラは、結婚の前にヨーロッパ全域をめぐる巡礼を果たすと宣言したという。『黄金伝説』は別の経緯を記している。ブリトン人の王の娘ウルスラは、イングランドを治める異教徒の王の息子アイテリウスとの結婚を求められ、同意したうえで三つの条件を出した。三年以内にアイテリウスが洗礼を受けること、十人の同伴者と1万1千人の乙女の一団を編成すること、そして彼らとともにローマへ巡礼に出ることである。

ウルスラは従う者たちとローマへ向かい、教皇キュリアクスとラヴェンナ司教スルピキウスに、一行と合流するよう説いたとされる。ただし教皇座の記録には、そのような教皇は知られていない。一行はフン族に包囲されたケルンへ進み、従う処女たちは恐るべき虐殺で全員が命を失った。383年と想定されているが、フン族の首長がウルスラを弓で射殺し、彼女は殉教したという。ウルスラと処女たちはケルンに葬られたとされ、その地には聖ウルスラ教会が建つ。この教会は、周辺で見つかった4世紀から5世紀頃の墓石に、八歳の少女の名としてウルスラが記されていたことから、この名を持つ。

1万1千人という数字は、5世紀頃のケルンにあった処女殉教者の伝承では2名または11名ほどで、9世紀になって初めて現れる。その理由として、殉教者二名の名を「ウルスラとウンデキミリア」または「ウルスラとキミリア」と呼んでいたものが、「11なる千」と誤読されたという説がある。また「11名の殉教した処女」を表す略号が「1万1千人の乙女」と誤って解釈されたとする説もある。さらに、出所の知れない遺骨が殉教者の聖遺物として大量に売られ、その数を説明するために人々が1万1千という数字を作ったという説もあり、実際の遺骨は教会の墓地に葬られたローマ時代の人々のものであった。

中世にはウルスラは実在の聖女と信じられて崇敬され、教師や女学校教師の守護聖人とされた。ケルンの紋章を飾る11個の炎は、この伝説の重要性を示し、ケルンの守護聖人である理由も説明する。13世紀にはソルボンヌが守護聖人とした。大航海時代にはコロンブスが彼女と乙女たちにちなんでヴァージン諸島を名づけ、1520年10月21日にはマゼランが処女岬を同じ由来で命名した。1535年にアンジェラ・メリチが創設した聖ウルスラ修道会は、少女の教育に力を注ぎ、聖ウルスラの名を世界に広めた。1639年にはカナダのケベックに北アメリカ初の女子教育施設を開いた。一方、現代ではウルスラの物語は歴史的事実に基づかない創作と見なされ、1969年に教皇パウロ6世の指示による聖人暦の見直しで、10月21日の祝日とともに典礼暦から除かれた。

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