伝記
マリー・ド・メディシスは、フランス国王アンリ4世の二番目の王妃で、ルイ13世の母である。1575年4月26日、フィレンツェのピッティ宮殿で、トスカーナ大公フランチェスコ1世と、オーストリア大公女ジョヴァンナの六女として生まれた。イタリア語名はマリア・デ・メディチという。母は1578年に階段から落ちて亡くなり、父も1587年に愛人から後妻となったビアンカ・カッペッロとともに世を去ったため、孤児となった彼女は、ヨーロッパで最も裕福な相続人とみなされた。叔父フェルディナンド1世が大公位を継ぎ、姉の結婚後は従兄ヴィルジニオ・オルシーニと遊び相手として過ごし、数学や哲学、天文学などの学問と芸術に関心をもち、宝石をこよなく愛した。ヤコポ・リゴッツィに絵を習い、歌や楽器も嗜んだという。
1600年、27歳のとき、前妻マルグリット・ド・ヴァロワと離婚したばかりのアンリ4世に見初められて嫁いだ。ただし、これは国の財政が逼迫していたアンリ4世が、多額の持参金を目当てにした政略結婚でもあった。メディチ家は王に金を貸しており、その返済にあてる意味もあったとされる。夫は女好きで知られ、留守がちだったうえ、結婚当初フランス語を話せなかったマリーの暮らしは孤独だったという。浪費も激しく、毎日のように宝石を買った。1601年に待望の世継ぎのルイ13世を産むと、王宮での立場は一気に高まり、ほかに5人の子をもうけた。成長したのは、スペイン王フェリペ4世の妃となったイザベル、サヴォイア公の妃となったクリスティーヌ、オルレアン公ガストン、イングランド王チャールズ1世の妃となったアンリエット・マリーである。アンリ4世は放蕩を慎み、自分の不在時には国政の全権をマリーに与える布告を出した。
1610年、アンリ4世は狂信的なカトリック教徒に暗殺された。それは彼女の戴冠式の翌日のことであった。マリーは王位を継いだ息子ルイ13世の摂政となった。ルイが成人した1614年に摂政の任は法的に終わったが、彼女は退かず、実権を握り続けた。アンリ4世時代の宰相を罷免し、イタリア出身のコンチーノ・コンチーニを重用した。アンリ4世は国内でカトリックとプロテスタントの融和をはかったが、マリーはカトリックをあからさまに擁護し、子らをハプスブルク家と結婚させて、夫の方針をことごとく破棄した。これに成長した息子ルイ13世や有力貴族たちは不満を強め、三部会の開催などを迫った。
1617年、ルイ13世はコンチーニの暗殺と母のブロワ城への幽閉を命じ、リシュリューを補佐官として味方に引き入れた。マリーは1619年にブロワ城を脱出し、次男ガストンとともに反乱軍を起こしたが、ほどなく国王軍に鎮圧された。リシュリューのとりなしで王と和解し、1621年まで王立議会の一員として政治に携わった。しかしリシュリューが宰相となって実権を握ると、彼の失脚を画策するようになり、この争いでもリシュリューが一枚上手だった。1630年11月11日、彼女と王弟ガストンは国王からリシュリュー罷免の確約を得たが、リシュリューが説得すると、ルイは土壇場で態度を翻し、リシュリューを支持した。1631年にフランスを追放され、ブリュッセルに亡命し、1642年7月3日、ケルンで没した。ルーヴル美術館には、ルーベンスによる24枚の連作大画「マリー・ド・メディシスの生涯」がある。リュクサンブール宮殿の改築の際に、彼女自身が注文したもので、生誕から結婚、王室での日々までを、神話の神になぞらえた姿で描いている。
同じ年に亡くなった人物
- サスキア・ファン・オイレンブルフ (1642年没)
- Martine Bertereau (1642年没)
- グイド・レーニ (1642年没)
- ピーテル・ファン・ラール (1642年没)
- Halshka Hulevychivna (1642年没)
同じ地域に関係する人物
- クリストフ・グーデルマン (1852年没)
- レオポルト2世 (リッペ侯) (1851年没)
- カール・アルノルト (1958年没)
- オットー・ゲオルク・ティーラック (1946年没)
- オットー・ラッシュ (1971年没)