伝記
ラヴィ・シャンカルは、1920年4月7日に生まれ、2012年12月11日にカリフォルニア州サンディエゴで没したインドのシタール奏者、作曲家である。20世紀後半に、インド古典音楽を世界に最もよく知らしめた演奏家であり、アメリカの歌手ノラ・ジョーンズと、シタール奏者アヌーシュカ・シャンカルの父でもある。
当時はイギリス領インドのヴァーラーナシーで、ベンガル人のヒンドゥー教徒の家に、7人兄弟の末っ子として生まれた。父シャーム・シャンカルは、ロンドンの法曹学院の弁護士で学者だったが、のちにロンドンで暮らし、現地で再婚したため、息子は8歳になるまで父に会わなかった。名前のラヴィとは「太陽」の意である。10歳のとき、兄の舞踊家ウダイ・シャンカルの舞踊団とともにパリへ渡り、13歳で団員となって、各国を巡業した。兄とともに欧米諸国で活動する中で、フランス語を覚え、西洋のクラシック音楽やジャズ、映画に触れ、西洋の習慣を身につけた。15歳のころ、舞踊団の演奏家アラウッディーン・カーンからシタールを勧められた。1938年に舞踊家の道をやめ、カーンのもとで修業するためマイハルに移り、その家族と暮らしながら、約7年にわたってシタールとスルバハールを学んだ。カーンは昔気質で気難しい人物だったが、ダンサー時代に通訳兼ガイドとして接していたため、シャンカルにだけは優しかったという。豪華なホテルに泊まったダンサー時代とは対照的に、不衛生な環境だったが、「自分を浄化したい」という思いが強く、逃げ出したいとは思わなかったそうである。1939年12月に、カーンの子で、サロード奏者のアリ・アクバル・カーンと二重奏でデビューし、1944年に修業を終えた。デビューするとすぐに人気を博し、本人は、ダンサー時代に身につけた西洋の知識や語学、ふるまい方が、出世の速さにつながったと語っている。
その後ムンバイに移り、インド人民演劇協会に加わって舞踊劇の音楽を作り、サタジット・レイ監督の『オプー三部作』をはじめ、『ガンジー』(1982年)などの映画音楽も数多く手がけた。1950年代にはインド政府が派遣する文化使節のリーダーとして、世界各国で演奏した。1958年に来日し、ラジオ東京テレビに出演した。1960年代半ばには、ビートルズのジョージ・ハリスンを弟子に迎え、モントレー・ポップ・フェスティバル(1967年)やウッドストック・フェスティバル(1969年)などの大規模なロック・フェスティバルにも出演した。しかし、ポップ・スターのように扱われることを不快に思い、楽器を壊すパフォーマンスも、「楽器は神聖なもの」と考える自分には受け入れられず、ロック・フェスティバルには出ないと決めた。
だが1971年、バングラデシュ独立戦争で生じた難民の惨状に心を痛め、ハリスンに救済を訴えた。8月1日にニューヨークで、『バングラデシュ難民救済コンサート』を開き、ロック界初の大規模なチャリティー公演となった。この公演のライヴ・アルバムは、グラミー賞の年間最優秀アルバムに輝いた。一方、クラシック音楽にも進出し、1966年にバース国際音楽祭でユーディ・メニューインと共演し、1967年の共作は、グラミー賞の最優秀室内楽賞を受けた。アジアの音楽が同賞を受賞したのは初めてだった。1971年にはアンドレ・プレヴィン指揮のロンドン交響楽団と共演し、シタールと管弦楽団のための協奏曲を発表した。1991年に福岡アジア文化賞大賞、1997年に高松宮殿下記念世界文化賞を受けた。2013年のグラミー賞では、功労賞が贈られた。
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