伝記
サリー・クリステン・ライドは、1951年5月26日にカリフォルニア州サンタモニカで生まれたアメリカの女性宇宙飛行士で、物理学者である。父デール・バーデル・ライドは第二次世界大戦中にヨーロッパで陸軍の歩兵師団に従軍し、戦後に復員兵援護法で大学に進んで、のちに短期大学の政治学の教授となった。母キャロル・ジョイスはノルウェー系で、女性の矯正施設でボランティアの相談員を務めた。妹にカレンがいた。両親は長老派教会の長老だった。ロサンゼルスのバンナイズとエンシーノの地区で育ち、9歳のときの1960年には、家族で1年間ヨーロッパを旅行した。スペインで初めてテニスをして、スポーツ、とくにテニスを好み、10歳で元世界1位のアリス・マーブルの指導を受けた。1963年には南カリフォルニアの12歳以下の女子で20位の選手になった。
私立の女子校に通い、人体生理学を教えるエリザベス・モメルツが師となって、天体物理学者になることを決意した。1968年に卒業して、スワースモア大学に全額奨学金で入学し、テニスの東部大学対抗の女子シングルスで優勝した。しかし、故郷が恋しく、当時は女子テニスへの支援も薄かったため、3学期で大学を去って、1970年1月にカリフォルニアへ戻り、プロのテニス選手を目指した。カリフォルニア大学ロサンゼルス校に入ってシェイクスピアと量子力学を受講し、どちらも最高の成績を収めた。物理学を専攻する唯一の女性だった。プロテニスへの挑戦は実らず、スタンフォード大学に3年次から編入した。1973年に物理学の理学士号と英文学の文学士号を取得し、1975年に修士号、1978年に博士号を得た。研究は、星間物質とX線の相互作用に関するものだった。
1978年にアメリカ航空宇宙局に入り、女性を初めて含む宇宙飛行士の第8期生に選ばれた。1979年に訓練を終えたあとは、スペースシャトルの2回目と3回目の飛行で地上の通信担当を務め、シャトルのロボットアームの開発にも携わった。1983年6月、スペースシャトル・チャレンジャーのSTS-7で、アメリカの女性として初めて宇宙へ飛んだ。ソ連のワレンチナ・テレシコワ(1963年)、スヴェトラーナ・サヴィツカヤ(1982年)に次ぐ世界で3人目の女性宇宙飛行士で、32歳は当時の最年少のアメリカ人飛行士だった。この飛行では通信衛星2基を放出し、最初のシャトル搭載の衛星を、ロボットアームで放出し、回収した。1984年10月に同じチャレンジャーで2回目の飛行をし、宇宙での滞在は合計で343時間を超えた。
1986年のチャレンジャーの爆発事故のあと、事故調査委員会の委員を務め、のちのコロンビアの事故の調査にも加わった唯一の人物となった。1987年に航空宇宙局を辞し、スタンフォード大学の国際安全保障・軍備管理センターで2年間働いた後、カリフォルニア大学サンディエゴ校で非線形光学などを研究し、教授を務めた。1982年に同じ宇宙飛行士のスティーブン・ホーリーと結婚し、1987年に離婚した。2012年7月23日、膵臓がんのためサンディエゴの自宅で没した。生前は公にしなかったが、死後、27年間連れ添ったパートナーで教育者のタム・オショーネシーによって、彼女が同性愛者であったことが公表された。オバマ大統領は彼女を「国民的英雄」と呼び、2013年に文民最高位の大統領自由勲章が贈られた。小惑星4763番には彼女の名がつけられている。
同じ年に亡くなった人物
- ヴィタリー・ウォロトニコフ (2012年没)
- ジョン・ロード (2012年没)
- レオナルド・ファヴィオ (2012年没)
- ホセ・ルイス・ボラウ (2012年没)
- ビル・ハインツマン (2012年没)
同じ地域に関係する人物
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- ジェリー・ゴフィン (2014年没)
- マーティン・ランドー (2017年没)
- William Hamilton (1955年没)
- アントン・イェルチン (2016年没)