伝記
ジョン・ダグラス・ロード(通称ジョン・ロード)は、1941年6月9日にイングランドのレスターで生まれたハモンドオルガン奏者、ピアニスト、作曲家である。父がサクソフォーン奏者という音楽的な環境で育ち、9歳のころからピアノのレッスンを受け始めた。当初はクラシックのピアニストを目指していたが、演劇にも関心があり、演劇学校にも通っていた。ある日、ジミー・スミスの奏でるハモンドオルガンの音を偶然耳にして、その魅力にとりつかれたという。
アマチュアのバンドでキーボードを担当したものの、仕事にはあまり恵まれなかった。1964年に、アート・ウッドが率いる本格的なリズム・アンド・ブルースのバンド、ジ・アートウッズに加わり、8作のシングルとアルバムの制作に携わったのち、1967年に脱退した。同年にサンタ・バーバラ・マシン・ヘッドを結成して、オムニバス・アルバム『ブルース・エニタイム』にインストゥルメンタル3曲を提供したが、この年のうちに解散した。続いて、ボーカル・グループのザ・フラワー・ポット・メンのバックバンドにも加わっている。
1967年末、元サーチャーズのクリス・カーティスが組んだ新しいバンド、ラウンドアバウトの2人目のメンバーになった。カーティスは、ギタリストのリッチー・ブラックモアを迎えたあとで姿を消したため、ロードはブラックモアと2人でメンバー探しを続けた。バンドは1968年2月ごろまでに5人組となり、同年4月20日にデンマークの学校のホールで初のライヴを行った。5月にはディープ・パープルと改名する。1976年3月に第4期をもって解散するまで、ロードはオリジナル・メンバーで最年長の者として、バンドをまとめる立場にあった。
その間にもソロの活動を続け、1971年10月に初のソロ・アルバム『ジェミニ組曲』を、パープル・レコードの第1弾として発表した。マルコム・アーノルドが指揮するロンドン交響楽団と、アルバート・リー、ロジャー・グローヴァー、イアン・ペイス、トニー・アシュトンらが共演した。1974年には2作目の『バッハ未完成フーガ』を出した。ミュンヘンで開かれたコンサートの録音で、デイヴィッド・カヴァデールやグレン・ヒューズらが客演している。同年8月にはアシュトンとの共作『ファースト・オブ・ザ・ビッグ・バンズ』も出した。
ディープ・パープルの解散後は、1976年8月にペイス、アシュトン、バーニー・マースデンらとペイス・アシュトン・ロードを結成し、1977年に『不思議な国のマリス』を発表したが、1978年5月に解散した。同年、デイヴィッド・カヴァデールが率いるホワイトスネイクに参加する。1984年には第2期のメンバーによるディープ・パープルの再結成に加わり、膝を痛めた2001年のあと、2002年に引退の形でバンドを離れた。膝が手術なしで回復すると引退を撤回し、ソロ活動に専念した。2004年には元アバのアンニ=フリッド・リングスタッドと組んだ曲を、『ビヨンド・ザ・ノーツ』に収録している。
2009年には東京国際フォーラムでのディープ・パープルの公演にサプライズで出演し、同年には、ダブリンで「グループとオーケストラのための協奏曲」を再演した。2011年、膵臓癌で闘病中であることを公表し、英国とイスラエルで治療を受けながら、この協奏曲のスタジオ録音版の制作に病身をおして参加した。2012年7月16日、肺塞栓症のため、ロンドンのクリニックで亡くなった。ハモンドオルガンでは、グレアム・ボンドから大きな影響を受けたと語っている。
同じ年に亡くなった人物
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- アンジェロ・ダンディー (2012年没)
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