伝記
フランク・シャーウッド・ローランドは、1927年6月28日にオハイオ州デラウェアで生まれたアメリカ合衆国の化学者である。愛称は「シェリー」で、主に大気化学と化学反応速度論の分野で業績をあげた。公立の学校で教育を受け、飛び級によって16歳の誕生日の数週間前に高校を卒業した。高校時代の夏には地元の気象観測所の運営を任され、これが組織的な実験とデータ収集に触れた最初の経験になったという。
オハイオ・ウェスリアン大学に進み、18歳になる少し前に卒業できるところだったが、海軍に入ってレーダー技術者の訓練を受けることになり、14か月後に下士官として除隊した。のちにシカゴ大学に入ると、ウィラード・F・リビーが指導教官に割り当てられ、放射化学の研究を始めた。博士論文の主題は、サイクロトロンでつくった放射性の臭素原子の化学的な状態だった。1948年にオハイオ・ウェスリアン大学で学士号を得て、シカゴ大学で1951年に修士号、1952年に博士号を取得した。
その後、プリンストン大学で1952年から1956年まで、カンザス大学で1956年から1964年まで教え、1964年にカリフォルニア大学アーバイン校の化学の教授となった。1970年代の初めには、マリオ・モリーナと共同で大気化学の研究に打ち込んだ。ローランドは、人工の有機化合物の気体が成層圏で太陽の放射によって分解され、塩素原子を放出し、その塩素の原子が、それぞれ多数のオゾン分子を壊しうるという仮説を立てた。クロロフルオロカーボン(CFC)は、スプレーや冷媒などに使われていた物質であり、オゾン層を破壊することを突き止めたのが彼のもっとも重要な貢献である。研究は1974年に科学誌に発表されて、問題をめぐる科学的な調査の引き金となった。
発表のあと、1978年にアメリカでCFCを用いたスプレー缶が初めて禁止されたが、生産は止まらず、ほどなく従来の水準に戻った。世界規模の規制が実現するのは1980年代で、ウィーン条約とモントリオール議定書がそれを可能にした。ローランドは世界各地の都市で空気を採取し、CFCの一種の濃度を緯度ごとに測って、それが南北の半球間でかなり速く混ざることを確かめた。8年後に同じ測定を繰り返すと濃度は着実に増えていた。オゾン層の濃さに季節による変動があること、パターンは一定でも全体の量は年々減っていることも、そのデータが示した。研究者仲間とともに市民や政治にも働きかけ、CFCの影響を段階的に減らす方策を提案した。核兵器が大気に与える影響や地球温暖化の研究にも携わった。
1978年に全米科学アカデミーの会員に選ばれ、1993年にはアメリカ科学振興協会の会長を務めた。1983年のタイラー賞、1989年の日本国際賞、1994年のアルベルト・アインシュタイン世界科学賞などを受け、1995年にはモリーナ、ドイツのパウル・クルッツェンとともにノーベル化学賞を受けた。大学の校舎の一つがローランドホールと名づけられ、南極のローランド山にも名が残る。2012年3月10日、パーキンソン病の合併症のため亡くなった。モリーナは、シェリーは自分の経歴を通じて大きな影響を与え続けたと語った。
同じ年に亡くなった人物
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