伝記
エルサレムのキュリロスは、四世紀の傑出した神学者の一人で、エルサレム主教を務めた人物である。生年は313年ごろとも315年ごろともされ、没年は386年とも387年とも伝わる。在位は350年から386年とされ、正教会、カトリック教会、聖公会で聖人として崇敬される。ギリシア教父に数えられ、カトリック教会では教会博士とされている。教会博士としての宣言は、1883年に教皇によって行われた。
両親は分かっていない。若い頃に十分な文学的教育を受けたらしく、聖書に通じていた。エルサレムの地で苦行の生活を送っていたのち、348年より前に、主教マクシモスによって司祭に叙階されたとされる。マクシモスの後継については記録に食い違いがあり、ヒエロニュムスは、死期の迫ったマクシモスが退いた後に彼が継いだとする。これに対して歴史家ソクラテスは、ニカイア信条を奉じたために、カイサレイアの主教アカキオスによって引きずり降ろされ、その代わりにキュリロスが叙階されたと伝える。いずれにせよ、彼が351年ごろにエルサレム主教となったのは、アカキオスらの希望によるもので、経歴の初めには、ニカイア派ではなく、当時の主流だったアリウス派寄りの立場にいたと考えられている。
しかし、その神学は次第にアリウス派に反する方向へ傾いた。アカキオスは、エルサレム主教は使徒座の主教としてすでに他の主教より上位の尊敬を受けていたのに、自分に従うよう要求した。これはアリウス派に同調させようとする意味合いを持っていた。応じない彼を、アカキオスは357年のエルサレム地方会議に訴え、彼は少数の同調者によって、教会裁判上の上訴も許されないまま追放された。追放先のタルソでキュリロスの声望が高まったことに焦ったアカキオスは、彼を主教裁判に訴えた。ところが、359年のセレウキア教会会議では逆にアカキオスが罷免され、キュリロスはエルサレム主教に復位した。しかしアリウス派のコンスタンティノポリス主教エウドクシオスとアカキオスが結託し、360年に再び流罪となった。
ユリアヌス帝が即位すると、再び復位した。皇帝がユダヤ教を優遇し、アリウス派以外の様々な異端も紛争を起こす中で、彼はエルサレム教会での異端との論争と、異端から戻った人々を含めた教会の和睦に努めた。381年には第一コンスタンティノポリス公会議に参加し、386年、平安のうちに世を去った。
彼の著述は、洗礼を受けようとする者と、新たに洗礼を受けた者への教えが中心である。ヒエロニュムスは、これを青年期に書いたと記す。教義の教えと式礼の説明を軸に、秘蹟についても述べ、生神女の語も用いた。アリウス派、サベリウス主義、アポリナリオス主義、グノーシス主義、ユダヤ教への論駁も含まれるが、語調は激越ではないとされる。四世紀の聖体礼儀や礼拝をめぐる生活を映し、信仰の内面の神秘に対しては、伝統的な沈黙の態度を保った。明治時代の日本正教会で全訳が出版され、1903年に刊行されている。十九世紀のロシア正教会のフィラレート大主教は、彼の示す式礼が、洗礼と傅膏を分けず続けて行うことなど、現代の正教会の奉神礼と非常に近いとして、これを正教会とは異なる道を歩んだプロテスタントやカトリック教会への批判の拠り所とみなした。
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