HISTORICAL PERSON · 1141年没

イェフダ・ハレヴィ

イベリア半島出身のヘブライ語詩人・哲学者。グラナダなどで各地の詩人と交友を重ねながら詩作を続け、晩年エルサレムに到着後まもなく没した。

生涯
1141年没
死亡地
パレスチナ国(エルサレム地区 / エルサレム)
出生地
スペイン王国(トゥデラ)
出典
世界地図
パレスチナ国(エルサレム地区)

伝記

イェフダ・ハレヴィは、イベリア半島出身のユダヤ人で、ヘブライ語の詩人であり、医師であり、哲学者でもあった。最も偉大なヘブライ語詩人の1人とされ、世俗と宗教の詩は、その多くが現在のユダヤ教の典礼に取り入れられている。生まれは1075年ごろ、またはそれ以前で、1075年から1080年のあいだとする説もある。生まれた町はトレドとも、ナバラ王国のトゥデラともいわれる。これは写本の記述が不明瞭なためである。どちらの町もイスラーム教徒の支配下にあったが、彼の生きた間に、トレドは1085年にアルフォンソ6世に、トゥデラは1118年にアラゴン王アルフォンソ1世に、キリスト教の君主によって征服された。

裕福な家庭に生まれ、ヘブライ語とアラビア語で幅広い教育を受けた。ヘブライ語の聖書とタルムードのほか、医学、数学、哲学などの学問にも通じていたとみられる。若いころ、当時のユダヤ人の文学と学問の中心だったグラナダへ行き、各地の詩人と交わった。そこでモーセス・イブン・エズラにならって詩を作り、その才能が認められるとともに、アブラハム・イブン・エズラと親しくなった。のちにアブラハム・イブン・エズラは、聖書の注釈のなかでイェフダの言葉をたびたび引いている。1090年以後にムラービト朝がイベリア半島で勢力を強めると、アル・アンダルスでのユダヤ人の立場は悪くなった。そのため、その後の約20年間は、トレドで医学を学ぶなどして各地を転々とした。トレドでは医術で生計を立てた。

大人になってからは医師として、また商取引やユダヤ人共同体の活動にも加わり、スペイン内外のユダヤ人や非ユダヤ人の貴族、高官とも交わった。後援者に、カスティーリャ王アルフォンソ6世の高官だったソロモン・イブン・フェリツエルがいたが、1108年にフェリツエルが虐殺されると、トレドを離れ、北アフリカやエジプトのユダヤ人共同体で詩作を行ったともいわれる。詩は、友人や著名な人々への賛辞、運命や青春と老い、友情と恋、酒と宴、教訓、結婚の祝い、なぞなぞなど多様な主題を扱い、アラビア語の詩の型と主題を用いた。音の響きと機知に特に注意を払うのが特徴である。なかでも、イスラエルの地への思いを歌ったシオンの詩で最もよく知られる。「シオンよ、問わないのか」は礼拝の典礼に加わり、広くまねられた。「わが心は東にあり」は、スペインの快適さと、シオンへの精神的なつながりのあいだの葛藤を、西と東の対比で語っている。少なくとも1人の娘がおり、詩人でもあったとされ、アブラハム・イブン・エズラの子イサクに嫁いだ。ユダヤ教を擁護する哲学書『クザリ』も著した。

晩年、スペインを離れて聖地に住もうと決心した。『クザリ』では、イスラエルの神の臨在が最も強く感じられるのはイスラエルの地であり、そこで暮らすことがユダヤ人にとって理想的だと論じ、対話は、登場するラビがエルサレムへ旅立つと決めて終わる。友人や家族、地位を手放し、十字軍の支配下で暮らすことへのためらいを、イスラエルへの思いが上回ったとされる。1140年9月8日にアレクサンドリアに着き、友人や崇拝者に熱烈に迎えられた。次いでカイロへ行き、何人もの高官や友人を訪ねた。1141年、イスラエルの地へ向けて船出し、エルサレム王国のエルサレムに着いてすぐ亡くなったとも、その近くか海上で没したともいわれる。

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