伝記
聖モニカは、ヒッポの司教アウグスティヌスの母で、古代キリスト教会三賢母の一人とされる。331年(332年ごろともされる)に北アフリカのタガステ(現在のアルジェリア)で生まれ、387年にオスティアで没した。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会・正教会で聖人として崇敬され、記念日は8月27日で、息子の記念日の前日にあたる。息子アウグスティヌスの著書『告白』が、その生涯を知る主要な手がかりである。
タガステはヒッポとカルタゴを結ぶ道筋にある小さな町で、当時はローマ属州アフリカの一部であった。モニカはベルベル系とされ、ローマ化した文化の中で育った。モニカという名は、土着の名モンナに由来するラテン語形とされる。313年のミラノ勅令でようやくキリスト教が容認された、まだ異教の多い世の中で、古くからのキリスト教徒の家に生まれた。幼いころは年老いた下女に預けられ、敬虔さと品行の確かな彼女のもとで、親に隠してわずかなぶどう酒を口にする癖を戒められてやめたという。このことから、アルコール使用障害の患者の守護聖人ともされる。のちに学校に通い、彼女が家を切り盛りするようになると、家ではポエニ語ではなくラテン語が話されたが、知識人ではなく、教養あるキリスト教徒が素朴とみなす伝統的な習慣にも愛着を持ち続けた。
モニカは23歳で最初の子アウグスティヌスを産んだ。夫のパトリキウスは20歳ほど年上の市の参事会員で、異教徒であり、怒りっぽく浮気性であった。モニカは夫の浮気や暴力に耐え、姑の疑いや使用人のうわさにも堪え、キリスト教を非難されても穏やかに、辛抱強く振る舞った。その柔和さは実を結び、夫は死の前年に信仰を受け入れ、洗礼を受けたという。夫の死はアウグスティヌスが17歳のときであった。一家は小地主で、ささやかな財産と使用人を持ち、息子の高等教育の費用を一部まかなえる程度であった。夫妻にはほかに息子のナウィギウスと娘がいた。
アウグスティヌスは17歳で修辞学を学ぶためカルタゴへ送られた。まもなくある女性と同棲して息子アデオダトゥスをもうけ、その関係は14年続いた。19歳のとき、キケロの『ホルテンシウス』を読んで人生の意味を問うようになったが、そこにキリストの名がないことに失望したという。『告白』によれば、アウグスティヌスが母を責めた点が二つあり、一つは洗礼を先延ばしにしたことだが、成人まで待つのはタガステの教会の慣習であった。もう一つは思春期に結婚させなかったことだが、これは輝かしい学業を損なうのを案じたためとされる。モニカは、身分の低い女性との同棲を終わらせ、身分の高い女性と正式に結婚させたいと願った。夫と息子の回心を祈る日々が続いたのである。
夫の死後、モニカは息子を追ってイタリアに渡り、ミラノ司教アンブロシウスの知己となって大きな影響を受けた。アウグスティヌスはアンブロシウスから洗礼を受け、放蕩な生活を悔い改めた。モニカはその回心を喜んだ。息子の回心を案じ、果たされて喜ぶ姿は『告白』に感動的に描かれ、母子の稀有な霊的交わりと評される。息子の洗礼後まもなく、モニカはオスティアで没した。東西の教会で、異教徒の夫を持つキリスト教徒女性の模範にして守護聖人として尊ばれ、夫を亡くした女性や既婚女性全般、家庭内暴力の被害者の守護聖人でもある。アメリカ合衆国カリフォルニア州の都市サンタモニカは、彼女に由来する。
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