伝記
アントニオ・グラムシは、1891年1月22日にイタリアのサルデーニャ島のアーレスで生まれたマルクス主義の思想家で、イタリア共産党の創設者の一人である。七人きょうだいの四番目で、父は村の役人だった。1898年に父が逮捕され、1900年に有罪判決を受けて服役したため、家族は極度の貧困に陥り、母は財産を売ったり裁縫の仕事をしたりして家計を支えた。生後まもなく背中にこぶができ、身体に障害を負った。小学校を出たのちも家庭の経済事情から苦学を続け、1911年に奨学金を得てトリノ大学に入学した。このころにはすでにイタリア社会党の機関紙『アヴァンティ!』を購読しており、大学入学以来の友人にトリアッティがいた。急速に工業化が進んでいたトリノには、フィアットなどの工場が各地から労働者を集めており、グラムシは共産主義者のサークルに出入りし、サルデーニャからの移民たちとも交わった。
1913年にイタリア社会党のトリノ支部に入党した。第一次世界大戦では、他の党員が出征していくなかで、身体障害のため徴兵を免除された。1915年には人手不足になった機関紙『アヴァンティ!』のトリノ支局に入った。当時の編集長はムッソリーニである。イタリア史の研究者として将来を嘱望されていたが、大学は中退した。1919年にトリアッティ、アンジェロ・タスカらとともに社会主義文化週刊紙『オルディネ・ヌオーヴォ(新しい秩序)』を発刊し、労働者による自主管理を軸とする工場評議会運動を展開して、工場占拠闘争などトリノの労働運動に積極的に参加した。1921年にイタリア共産党の結成に加わり、中央委員会の委員に選ばれた。1922年から23年にかけて党の代表としてモスクワに滞在してコミンテルンの執行委員を務め、この地でロシア人のユーリヤ・シュヒトと結婚して、のちに二人の息子が生まれた。
モスクワ滞在中にムッソリーニ政権から逮捕状が出たため、帰国できずスイスに滞在した。そのころジノヴィエフの後押しで党書記長となった。1924年に下院議員に選ばれると、議員の不逮捕特権を利用して帰国し、ムッソリーニ政権との対立姿勢を鮮明にした。1926年にはソ連の党内闘争をめぐってコミンテルンあての手紙を書いたが、モスクワにいたトリアッティはそれを宛先に渡さないと決め、二人の間には複雑な対立が残った。同年、亡命しようとしていたまさにその時に、ファシスト政権に逮捕され、11月にローマのレジーナ・チェーリ刑務所に送られて、20年4か月の禁錮刑を言い渡された。幼いころから障害を負い、病弱でもあったため、「大海の小石のように沈んで」いく運命だと覚悟したという。だが、経済学者の友人ピエロ・スラッファや義姉タチヤーナらの支援で、獄中でも本や雑誌を読み続け、執筆の許可も得て、ノートを書き始めた。ノートの数は33冊(うち4冊は翻訳ノート)、2848ページに及んだ。
この獄中生活のなかで、ヘゲモニー論、受動的革命論、歴史的ブロック論といった思索の大部分がなされた。ヘゲモニーの概念は、のちにカルチュラル・スタディーズやサバルタン・スタディーズ、国際関係学のグローバル政治経済学などにまで大きな影響を及ぼした。しかし、監獄内の非衛生的な環境と虐待で健康を害し、1933年末から入院して治療を受けた。1937年4月27日、刑期の減免による釈放の直後に脳溢血で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- イェギシェ・チャレンツ (1937年没)
- エリフ・ルート (1937年没)
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- エルッキ・メラルティン (1937年没)
- アドルフ・エルマン (1937年没)
同じ地域に関係する人物
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