伝記
ロナルド・H・コースは、1910年12月29日にロンドンのミドルセックス・ウィルズデンで生まれ、のちにアメリカで活動したイギリス生まれの経済学者である。足が不自由で、少年時代は特別学校に通っていた。息子の将来を案じた両親が骨相学者の見立てを伺ったところ「知的な職業」を勧められたといい、奨学金を得て中等学校に進むことができた。父は高等教育を受けていない電気技師だったが、当時のロンドン大学は労働者階級の子弟にも広く門戸を開いており、コースは通信教育の聴講生として進学した。入学当初は歴史学を志したものの、当時の英国で教養とされたラテン語の教育を受けていなかったため専攻を許されず、次に化学を志したが数学の成績があまりに悪く、これも断念せざるを得なかったという。
1932年に産業論の研究でロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを卒業した。その後、スコットランドのダンディー・スクール・オブ・エコノミクス(1932年から1934年)、リヴァプール大学(1934年から1935年)、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(1935年から1951年)で教え、第二次世界大戦中は英国政府の軍務に就いた。軍務では統計業務に携わったが、のちにシカゴ大学で同僚となるリチャード・エプスタインは、数学が苦手なコースが統計の仕事をしていたことに驚き、「あいつは生まれてから数字を見たことがない」と語ったという。この時期には、ロバート・ファウラーとの共同で豚肉の生産と豚の周期をめぐる論文を書き、1937年には「独占価格に関するいくつかの覚え書き」も発表した。1950年には放送事業を独占の観点から論じた『英国放送』を著している。
1951年にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスから博士号を得たのち、ロックフェラー財団の奨学金で渡米し、バッファロー大学(1951年から1958年)、バージニア大学(1958年から1964年)の教授を経て、1964年にシカゴ大学へ移った。これを機に学術誌『法と経済学』の編集者となり、「法と経済学」の発展に力を注いだ。1979年にシカゴ大学経済学部の教授を退いたあとも、1982年まで編集者の職に専念した。
1991年のノーベル経済学賞は、1937年の「企業の本質」と1960年の「社会的費用の問題」の二つの業績に対して贈られた。どちらも大著ではなく、論文の数も多くはなかったが、それまで経済学で議論されてこなかった「権利」や「法」による外部性の分析、「取引コスト」の概念による企業存在の基礎付けが独自の業績として認められた。前者は分業を通じた市場と企業の境界に言及し、後者で見いだしたメカニズムは「コースの定理」として知られる。ただ、この定理は誤解されることも多く、自由放任の市場競争を良しとするシカゴ学派の思想に基づくものだと受け取られがちである。しかしコース自身は、取引費用がゼロの世界の分析には、現実の世界の分析に向けた一歩としてしか価値がないと述べている。なお、「コースの定理」の名づけ親は、ジョージ・スティグラーだとされる。1988年の『企業・市場・法』などの著作もある。2013年9月2日、シカゴで死去した。
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