伝記
ウゴ・ラファエル・チャベス・フリーアスは、1954年7月28日、ベネズエラ内陸部のバリナス州サバネータに、教師だった父と母の子として生まれた政治家であり、軍人である。軍での最終階級は陸軍中佐で、のちに同国の大統領となった。敬虔なカトリック信者で、尊敬する政治家に、独立の英雄シモン・ボリバルを挙げていた。少年時代は成績優秀で、7歳の時には既に「大統領になりたい」と周囲に語っていたという。大の野球好きで、士官学校に入った動機には、野球部に強い選手が集まるからという理由もあったとされる。中学のころ、共産主義者の友人の影響で社会主義に共感を抱き、左翼の活動家だった兄の人脈で、元ゲリラとも交流を持った。
高校を卒業するとベネズエラ士官学校に入った。在学中に、ペルーで軍事革命政権を築いたベラスコ将軍と軍事式典で会い、大きな影響を受けた。1975年に卒業して陸軍に入り、少尉に任官し、空挺部隊に勤務した。その赤いベレー帽は、後に彼のトレードマークの一つとなった。1982年に同僚らと軍の中の地下組織を組織し、これはシモン・ボリバルにちなんで革命的ボリバル運動200と改称された。1989年2月にカラカスで貧困層の蜂起が起き、陸軍が出動して発砲し、多数の死傷者が出ると、これに衝撃を受け、1992年2月にチャベス中佐はクーデターを試みたが、失敗して投獄された。降伏のときにテレビで行った会見は、多くの国民に強い印象を与えた。釈放後、同志を第五共和国運動に組織して、武装闘争から合法的な政治活動に転じ、1999年、新自由主義的な経済改革や二大政党制、富裕層に独占された医療や福祉に不満を抱く貧困層の圧倒的な支持を受けて大統領に選ばれた。
就任後は新たな憲法を制定し、国名をベネズエラ・ボリバル共和国に改め、大統領の権限を強め、一院制に移行した。貧困層のための無料の診療制度を整え、キューバから2万人の医師や歯科医師の派遣を受け、農地改革や為替管理、石油公団への統制強化などを進めた。これをシモン・ボリバルにちなんで「ボリバル革命」と呼んだ。経済政策への不満や、富裕層の支配するマスメディアの反チャベス報道から、2001年ごろから反政府の運動が激しくなった。2002年4月11日には、軍部によるクーデターが起き、チャベスは軍に監禁されたが、新政権が強権的に振る舞ったため、貧困層のデモが激化し、軍や国家警備隊が寝返って、クーデターはわずか2日で失敗した。2004年8月の大統領信任投票では58%の信任を得た。2006年12月の大統領選でも大差で勝利した。2007年には批判的な民間テレビ局の放送免許を更新せず、閉鎖させた。同年12月、再選の制限の撤廃などを盛り込んだ憲法改正案は国民投票で僅差で否決されたが、2009年2月に再度の国民投票で承認された。
外交ではブッシュ政権のアメリカに強く批判的で、ロシア、中国、イランなどと友好を深めた。2011年、キューバ訪問中に癌の摘出手術と治療を受けた。2012年10月の大統領選では、得票率55.26%で野党の対立候補を破り、4選を果たしたが、病状が悪化して12月に再びキューバへ渡った。2013年2月に帰国した。3月5日、カラカスの軍病院で死去し、同日付でマドゥロ副大統領が暫定大統領に就任した。葬儀には数百万の群集に加え、32か国の首脳が参列した。キューバのフィデル・カストロは「キューバ国民にとって史上最良の友人を失った」と述べた。死後のベネズエラは、巨額の財政支出などによって深刻な経済危機に陥った。
同じ年に亡くなった人物
- エミール・グリフィス (2013年没)
- アラ・クシュニール (2013年没)
- アブドゥル・カデル・モッラ (2013年没)
- クリスチャン・ド・デューブ (2013年没)
- パトリス・シェロー (2013年没)
同じ地域に関係する人物
- アルトゥーロ・ミチェレーナ (1898年没)
- Jaime Lusinchi (2014年没)
- グレガー・マクレガー (1845年没)
- Wolfgang Larrazabal (2003年没)
- Jose Lebrun Moratinos (2001年没)