伝記
ジョーン・フォンテイン、本名ジョーン・デ・ボーヴォア・デ・ハヴィランドは、1917年10月22日に東京で生まれたアメリカの女優である。両親はイギリス人で、父ウォルター・オーガスタス・デ・ハヴィランドは、ケンブリッジ大学を卒業して1893年ごろに来日し、各地の教会や学校で英語やサッカーを教えたのち、早稲田大学の法科の教授を経て、特許専門の弁理士事務所を開いた。母リリアンは、来日前にイギリスで舞台女優をしていた人物である。1919年2月、母は病弱な娘たちに東京の気候が合わないのではないかと考え、一家はイギリスへ向かった。ところが途中のカリフォルニアで姉オリヴィアが気管支炎で倒れ、続いてジョーンも肺炎にかかったため、母は二人の娘とカリフォルニアに残り、サラトガに移り住んだ。父は日本へ戻り、両親は1925年に離婚した。のちに母はジョージ・ミラン・フォンテインと再婚している。
ジョーンはロス・ガトス高校に通い、姉とともに発声法を習った。16歳で父と暮らすため日本に戻り、東京の聖心インターナショナルスクールに入って、1935年に卒業した。在学中は横浜の同級生エレノア・チャイルドと親友になり、葉山のビーチハウスにも招かれたほか、グルー米国大使らとも交流して華やかな日々を送ったという。この生い立ちから、戦後の日本の映画雑誌では「江戸っ子女優」と紹介されることもあった。1935年に舞台で俳優としてデビューし、直後に映画会社RKOと契約を結んだ。映画初出演は同年の端役で、ジョーン・バーフィールドの名でクレジットされた。しかしRKOはキャサリン・ヘプバーンに力を入れており、端役ばかりが続いた。1937年にはフレッド・アステア主演の『踊る騎士』に出たものの不評で、契約は1939年に更新されずに終わった。
運命が変わったのは、ある晩餐会で大物プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックと隣り合わせたときである。二人はダフネ・デュ・モーリアの小説『レベッカ』について話し込み、セルズニックはその映画版のヒロイン役のオーディションを薦めた。6か月にわたって数百人が受けた過酷な選考に勝ち残り、22歳の誕生日を迎える直前に配役が決まった。ローレンス・オリヴィエと共演した『レベッカ』(1940年)はヒッチコックのハリウッド初作品で、大評判となり、アカデミー主演女優賞にノミネートされた。翌1941年、ケーリー・グラントと共演したヒッチコック作品『断崖』で、同賞を受けた。ヒッチコックの作品で俳優がアカデミー賞を得たのは、これが唯一である。姉のオリヴィア・デ・ハヴィランドも主演女優賞を受けており、二人は主演賞を得た唯一の姉妹とされる。
1940年代は恋愛メロドラマに多く出演し、『永遠の処女』(1943年)で3度目の主演女優賞候補となったほか、『ジェーン・エア』(1944年)、『忘れじの面影』(1948年)などで評価を得た。1950年代以降は活動の場を舞台とテレビに移し、1954年の舞台『お茶と同情』では高い評価を受けた。1966年の『影なき裁き』が最後の劇場映画で、1978年に自伝を出版し、1982年には第32回ベルリン国際映画祭の審査委員長を務めた。最後の映像作品は1994年で、晩年はカリフォルニア州カーメル・バイ・ザ・シーの邸宅で暮らし、2013年12月15日、96歳で亡くなった。
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