HISTORICAL PERSON · 1980年没

ヘンリー・ミラー

アメリカの小説家。ニューヨークのブルックリンで育ち、シティカレッジを2か月で中退して職を転々とした。

生涯
1980年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / パシフィック・パリセイズ)
出生地
アメリカ合衆国(ヨークヴィル)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

ヘンリー・ヴァレンタイン・ミラーは、1891年12月26日にニューヨーク市マンハッタン区で、カトリックのドイツ系アメリカ人の家に生まれ、1980年6月7日に没したアメリカ合衆国の小説家である。父は仕立て職人で、一家は1892年にブルックリンのウィリアムズバーグへ移り、1901年にはデカター通りに移った。ミラーはこの通りを「幼き日の悲しみの通り」と呼んでいる。

1909年にニューヨーク市立大学シティカレッジに入学したが、教育方針に反感を覚え、2か月で中退した。その後はセメント会社に就職し、1913年には西部を旅行して、農場で臨時雇いとして働いた。サンディエゴで無政府主義者のエンマ・ゴールドマンに会い、人生の転機になったという。1914年にはニューヨークに戻って父の仕立て業を手伝った。1920年にウェスタン・ユニオン電信会社にメッセンジャーとして入社し、のち雇用主任となる。1922年に会社から3週間の休暇をもらい、処女作『切られた翼』を書いた。1923年、ブロードウェイのダンスホールで働く女性ジューンと恋に落ちた。翌1924年に作家として立つ決意で退社し、最初の妻ビアトリスと離婚してジューンと結婚した。貧困と闘いながら、散文詩を売り歩くなどして創作に専念した。1927年にはグリニッジ・ヴィレッジでジューンと酒場を開き、水彩画の個展も開いている。

1928年からジューンと1年間ヨーロッパを旅し、帰国後に小説を完成させた。1930年に単身で再びヨーロッパに渡ったが、携えた原稿は編集者に紛失された。ロンドンにしばらく滞在した後、パリに腰を落ち着け、アルフレッド・ペルレスと親交を結んだ。1931年に作家アナイス・ニンと出会い、シカゴ・トリビューン紙のパリ版で校正係を務めた。1932年には浮浪者のような生活を送りながら『北回帰線』の執筆にかかった。冬の間はディジョンのリセで英語教師を務めている。1934年に自伝的小説『北回帰線』をパリで発表した。しかし、その奔放な性表現のため本国アメリカでは発禁となり、1964年に連邦最高裁判所が「猥褻文書ではない」とする判決を下した。1934年にはメキシコシティでジューンと離婚している。1939年に『南回帰線』が刊行され、同年にはギリシアを旅した。

1940年にニューヨークへ戻り、翌年にはカリフォルニアに移った。1944年にはビッグ・サーへ移転し、アメリカでの最初の真の住まいとした。同年ジャナイナ・レプスカと3度目の結婚をし、1945年に娘ヴァレンタイン、1948年に息子トーニーが生まれた。この頃に『セクサス』『プレクサス』『ネクサス』からなる『薔薇色の十字架』を書き進めた。水彩画の個展を各地で開き、1957年にはアメリカ芸術院会員に選ばれた。1961年にはニューヨークのグローヴ・プレス社から、輸入が禁止されていた『南回帰線』『北回帰線』のアメリカ版が発売された。1967年、75歳のときにホキ徳田と結婚した。パーティで徳田を見初めたミラーが、膨大な数の熱烈な手紙を送り続けた末の結婚で、50歳近い年齢差から欧米では批判的な記事も出た。3年で別居し、離婚は1978年のことである。結婚は生涯で5回に及んだ。

晩年の1969年には、映画『ヘンリー・ミラー・オデッセイ』が完成した。関連する資料は、現在カリフォルニア大学ロサンゼルス校に所蔵されている。

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