伝記
ジェームズ・ガーナーは、本名をジェームズ・スコット・バムガーナーといい、1928年4月7日、オクラホマ州ノーマンに生まれたアメリカ合衆国の俳優である。カーペット職人の父ウェルドンと、母ミルドレッドの間の三人兄弟の末っ子で、兄に、同じく俳優となったジャックがいる。母は一部チェロキー族の血を引き、メソジスト派の信徒だったが、彼が5歳のときに亡くなった。母の死後、兄弟は親戚に預けられた。1934年に父が再婚して家族は再び一緒になったが、継母の一人はウィルマといい、三人の息子を殴った。彼は14歳のとき、この継母と争い、相手を殴り倒して反撃を封じた。継母は家を出て二度と戻らなかった。最後の継母グレースを彼は「ママ・グレース」と呼んで慕い、誰よりも母らしかったと語っている。
父はその後ロサンゼルスに移り、彼と兄たちはノーマンに残された。いくつかの仕事を嫌って転々とした末、第二次世界大戦の終わりに近い16歳のときに商船隊に入ったが、船酔いがひどく、1年しか続かなかった。1945年に父を追ってロサンゼルスに出て、ハリウッド高校に通いながら、父の絨毯敷きの仕事を手伝った。その後の5年間は、カリフォルニアとオクラホマを行き来し、ひよこの孵化場や油田、トラック運転手、食料品店の店員などの仕事をした。高校の体育教師の勧めで、水着の広告のモデルを務め、報酬はよかったが、この仕事を嫌ってやめ、ノーマンに戻った。そこでフットボールやバスケットボールに励んだが、最終学年で中退した。後年、ひどい生徒で、高校は卒業しなかったが、卒業証書は軍隊で得たと語っている。
州兵に入隊し、朝鮮戦争で14か月、小銃手として従軍した。迫撃砲弾の破片で顔と手に傷を負い、さらに戦闘機による味方の誤爆で尻を負傷した。最初の負傷で名誉戦傷章を受け、除隊した。2度目の戦傷章を授かったのは、32年後の1983年だった。1954年、のちに製作者となるポール・グレゴリーに説得されて、ブロードウェイの舞台で台詞のない役につき、毎晩ヘンリー・フォンダを見て学んだ。モデルや舞台俳優を経てワーナー・ブラザースと契約し、1957年の『ロケット・パイロット』で映画に出た。同年からのテレビ西部劇『マーベリック』では、賭博師の長男ブレット役で一躍人気俳優となった。
その後は活躍の場をスクリーンに移し、『大脱走』(1963年)や『グラン・プリ』(1966年)などの大作アクション、ロマンティック・コメディ、西部劇まで幅広く主演した。映画は50本を超える。1974年には『ロックフォードの事件メモ』でテレビに復帰し、飄々とした個性で人気を集めた。1985年の『マーフィのロマンス』ではアカデミー賞の主演男優賞の候補になった。ゴールデングローブ賞を3度、エミー賞を2度受賞している。2005年、半世紀にわたる息の長い経歴をたたえられ、アメリカ映画俳優組合から生涯功労賞を贈られた。1956年にロイス・クラークと結婚し、ロイスの娘キムと、二人の間に生まれた娘グレイスがいた。2008年に軽い脳卒中を起こして入院、手術を受けた。2014年7月19日、自宅で亡くなった。86歳だった。
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