伝記
サー・ジョン・アーサー・ブラバム、通称ジャック・ブラバムは、1926年4月2日にオーストラリアのシドニー郊外で、八百屋の息子として生まれたレーシングドライバーである。幼いころから自動車と機械に親しみ、12歳で家の車と父の食料雑貨店のトラックの運転を覚えた。15歳で学校を離れ、地元の整備工場で働きながら、夜に機械工学の講座へ通った。やがて両親の家の裏のベランダを作業場にして、オートバイを買って修理し、売る商売を始めた。1944年に18歳でオーストラリア空軍に入り、パイロットを望んだが、乗員は余っていたため、不足していた整備士として働いた。1946年に除隊し、叔父が建ててくれた作業場で、小さな修理と機械加工の仕事を始めた。
レースを始めたのは、アメリカ人の友人に勧められてミジェットカーレースを見に行ってからである。ブラバムは最初、運転する人々を「みな正気ではない」と思ったが、友人と車を作ることに同意した。1948年に友人の妻の説得でその友人が運転をやめると、ブラバムが代わって乗り、3夜目で勝った。1948年から1951年にかけて、オーストラリアの選手権を何度も制した。1951年にヒルクライムに出てから舗装路のレースに関心を持ち、イギリスのクーパー社の車を買って改造し、1953年から舗装路に専念した。ダートトラックで腕を磨き、後続車に小石を浴びせる「技」も披露した。黒い髪と無口な様子から、「ブラック・ジャック」とあだ名された。
1955年にイギリスに渡り、クーパーでレーサー兼メカニックとして働いて、ミッドシップのレーシングカーの開発に携わった。同年のイギリスGPでF1デビューを果たし、1957年から定期的に参戦した。1959年の開幕戦モナコGPで初優勝し、スターリング・モスらとの争いを制して、オーストラリア人として初のチャンピオンに輝いた。最終戦では最終ラップにガス欠になり、マシンを押しながらゴールした。1960年は第4戦から5連勝して、連覇を決めた。1961年には小排気量のミッドシップ車をインディ500に持ち込んで9位に入り、前にエンジンを置く旧来のマシンが時代遅れであることを示した。
1961年に同郷のロン・トーラナックと設立した会社をもとに、1962年に自らの名を冠したブラバム・チームで参戦し、オーナー兼ドライバーとなった。日本のホンダと信頼関係を築き、1966年のF2では、ホンダのエンジンを載せたブラバム・ホンダで14戦中11勝を挙げた。1966年にF1のエンジン規定が3000ccに変わると、馬力は低いが信頼性の高いV8を選び、狙いが的中した。第3戦のフランスGPでドライバーとして自チームでの初勝利を挙げ、5年間勝てなかった限界説をはねのけ、3度目のチャンピオンに輝いた。自分の名の車でチャンピオンになったのは、F1の歴史で彼ただ一人である。この年、40歳を過ぎて迎えたオランダGPでは、付け髭をつけ杖をついて現れて笑いを誘い、そのレースで優勝した。
1970年のシーズン終了とともに引退し、チームをトーラナックに売却して帰国した。農園や自動車販売業、航空会社を経営し、1971年にはジョン・ジャッドとレーシングエンジンの会社を創設した。1985年にモータースポーツへの貢献でナイト爵を授けられ、エリザベス女王から称号を受けたときは、「ありがとう」と一言しか言えなかったという。三人の息子ジェフ、ゲイリー、デビッドもレーサーとなった。2014年5月19日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- Nevio de Zordo (2014年没)
- マリア・ラスニック (2014年没)
- Levente Lengyel (2014年没)
- シモン・レイス (2014年没)
- Constantin Alexandru (2014年没)
同じ地域に関係する人物
- マクトゥーム・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム (2006年没)
- エミリー・フッド・ウェスタコット (1980年没)
- エドガー・ムーン (1976年没)
- コーリン・クラーク (1989年没)
- スティーブ・アーウィン (2006年没)