伝記
ルネ・デカルトは、1596年3月31日、中部フランス西側のアンドル=エ=ロワール県のラ・エーに生まれた哲学者・数学者である。父はブルターニュの高等法院評定官であった。母からは空咳と青白い顔色を受け継ぎ、診察した医師たちには夭折を宣告された。母は病弱で、デカルトを生んで13か月で亡くなり、祖母と乳母に育てられた。1606年、10歳でイエズス会のラ・フレーシュ学院に入学した。この学院は1604年に創立され、アンリ4世が邸宅を提供したことで知られる。信仰と理性は調和するという考えからスコラ哲学をカリキュラムに取り入れ、新発見の導入にも積極的で、1610年にガリレオが望遠鏡で木星の衛星を発見した知らせが届くと、祝祭が催されたほどである。デカルトは従順で優秀な生徒で、論理学・形而上学・自然学のほか、占星術や魔術の書物まで多く読み、とりわけ数学を好んだ。のちに終生の友人となるマラン・メルセンヌは、学院の先輩に当たる。好んだ数学に比べて神学やスコラ学の非厳密性が際立ち、学院の知識への懐疑が生まれたが、教育や教師への感謝は終生持ち続けた。
1614年に学院を卒業し、ポワティエ大学で法学と医学を修め、1616年に法学士の学位を受けた。その後2年ほどは自由に生活し、パリでメルセンヌに再会し、数学者クロード・ミドルジと知り合った。書斎の書物を捨て、「世間という大きな書物」の中に飛び込もうと決意し、1618年、22歳でオランダに赴いてナッサウ伯マウリッツの軍隊に加わった。同年11月、要塞都市ブレダで医者であり自然学者・数学者でもあるイザーク・ベークマンに出会い、知的な刺激を受けた。処女作の『音楽提要』はベークマンに贈った。1619年4月、三十年戦争が起こったと聞いてドイツへ旅立ち、バイエルン公マクシミリアン1世の軍隊に入った。同年10月からはノイブルクの炉部屋にこもって自分の生きる道を探し、11月10日の昼間に「驚くべき学問の基礎」を発見し、夜に三つの神秘的な夢を見たという。
1623年から1625年にかけてヴェネツィアとローマを巡り、その後パリに住み、メルセンヌを中心に学者たちと交友を深めた。教皇使節の屋敷での集まりで、初めて公衆の前に自らの哲学の構想を明かし、枢機卿ド=ベリュルはその実現に努めることがデカルトの「良心の義務」だとまで述べて、研究を強く勧めた。1628年にオランダへ移住した。『世界論』を書いたが、1633年にガリレオが異端審問所に地動説の破棄を求められた事件を知り、公刊を断念した。1637年に『方法序説』を公刊し、1641年にパリで『省察』を公刊して評判が高まったが、この年の暮れからユトレヒト大学のヴォエティウスに無神論を広める思想家として非難され、1645年にユトレヒト市はデカルト哲学の出版と論議を禁じた。1643年からはプファルツ公女エリーザベトと書簡を交わし始め、これは死まで続いた。1644年に『哲学原理』、1649年に『情念論』を公刊した。
1649年、スウェーデン女王クリスティーナから招きの親書を3度受け取り、4月には海軍提督が軍艦で迎えに来た。女王が冬を避けるよう伝えたにもかかわらず、9月に出発して10月にストックホルムへ到着した。1650年1月から、女王のために朝5時からの講義を行ったが、朝寝の習慣のあるデカルトにはつらい毎日であった。2月に風邪をこじらせて肺炎を併発し、死去した。遺体はスウェーデンに埋葬されたが、1666年にパリのサント=ジュヌヴィエーヴ修道院に移され、1792年にサン=ジェルマン=デ=プレ教会に移された。
同じ年に亡くなった人物
- ドルゴン (1650年没)
- ベルンハルドゥス・ウァレニウス (1650年没)
- エリーザベト・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル (1593-1650) (1650年没)
- ジェイムズ・グラハム (初代モントローズ侯爵) (1650年没)
- バルトール・カシッチ (1650年没)
同じ地域に関係する人物
- ハリー・マーティンソン (1978年没)
- レナート・ベルゲリン (2008年没)
- ラグナー・グラニト (1991年没)
- ポントゥス・アルノルドソン (1916年没)
- カール・ミカエル・ベルマン (1795年没)