伝記
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、1593年3月19日、当時まだフランスの一部ではなかったロレーヌ公国の小さな町ヴィック=シュル=セーユに生まれた。洗礼記録によれば父はパン屋のジャンで、母シビルも同じくパン屋の家の出であり、7人きょうだいの2番目だったという。少年時代や修業時代の詳細はわかっていない。1616年の旅でユトレヒト派の画家たちと出会った可能性が指摘され、カラヴァッジョの影響は、そうした画家を通じて伝わったのだろうとされる。修業中にイタリアへ行ったという確かな証拠はなく、フランスの画家としては珍しく、イタリア旅行をしなかった可能性がある。
やがてロレーヌ地方の町リュネヴィルの貴族の家の娘ディアーヌ・ル・ネルフと結婚して同地に住み、1617年頃から活動を始めた。1620年には弟子がいたことが知られ、この頃には画家としての地位を確立していたとみられる。同じ年、公爵から貴族並みの特権を認める書状を受け、市民として迎えられた。宗教画のほか、楽師や物乞いを描いた風俗画を数多く手がけ、公爵や教会、ロレーヌの市民や貴族から注文を受けて、リュネヴィルで最も裕福な住民の1人になったという。ただし公爵の公式の画家の座は、他の画家が占めていた。
1633年からは、三十年戦争によってロレーヌが荒廃した。1635年にはスウェーデン軍が国土を荒らし、リュネヴィルも焼かれ、画家は家族とともにナンシーへ避難したと伝えられる。フランス王はロレーヌの芸術家を自らのもとに引き寄せようとし、1639年にはパリへ出て、ルイ13世から「国王付画家」の称号を得た。王は彼の『イレネに介抱される聖セバスティアヌス』を所有しており、お気に入りの絵だったという。しかし財産と特権はロレーヌにあり、1641年に家が再建されると、リュネヴィルに戻った。フランス人のロレーヌ総督ラ・フェルテ公には、新年の贈り物として何度もその絵が贈られたという。
作品には、『いかさま師』『女占い師』のような風俗画と、『悔い改めるマグダラのマリア』『大工の聖ヨセフ』のように夜の情景を描いた聖書の題材のものがある。画面の多くを闇が占め、人物を照らす光は、ろうそくやたいまつなど単一の光源から差し、明暗が劇的に対比される。形態は単純化・平面化され、モチーフは切り詰められているが、深い精神性と宗教的感情が漂う。同じ題材・同じ構図の作品が複数あり、『いかさま師』はルーヴル美術館とキンベル美術館に、ほぼ同じ構図の絵が残る。
1652年1月、伝染病(ペストと伝わる)のため、15日に妻ディアーヌを、続いて身近な者(子とも召使いともいう)を失い、30日に画家自身も後を追うように死去した。死亡記録には胸膜炎とある。生前は名声を得たが、その名は18世紀には忘れられ、作品がスペインの画家のものと思われた時期もあった。再認識は20世紀初頭に始まり、ドイツの研究者ヘルマン・フォスが1915年に3点をラ・トゥール作と確認した。1934年にパリで開かれた展覧会で注目され、1972年には大規模な展覧会が開かれた。ただし真作の点数は、20数点とする研究者もいれば、60数点とする説もある。
同じ年に亡くなった人物
- ホセ・デ・リベーラ (1652年没)
- ヨハネス・トメ・アグリヴィレンシス・ブレウス (1652年)
- ヤン・ボト (1652年没)
- ヨハン・フォン・ヴェルト (1652年)
- モーリッツ・フォン・デア・プファルツ (1652年没)
同じ地域に関係する人物
- ロジェ・ピアントニ (2018年没)
- ピエール・グランゴワール (1538年没)
- エミリー・デュ・シャトレ (1749年没)
- アンリ・ブラコノー (1855年没)
- マルセル・ビジャール (2010年没)