伝記
ホセ・デ・リベーラは、スペイン黄金時代のバロック期を代表する画家で、1591年、靴職人の息子としてバレンシア近郊のハティバに生まれた。「フセペ・デ・リベーラ」とも呼ばれ、イタリアでの名はジュゼッペ・リベーラである。若くしてイタリアに渡り、生涯の大半をナポリで過ごして、終生母国には帰らなかった。イタリア人からは「ロ・スパニョレット」(小さなスペイン人)とあだ名された。
前半生については不明な点が多い。若い頃の20年ほどは記録がほとんどなく、1611年に、パルマの教会のための絵の代金を受け取った記録で再び名が現れる。後世の伝記作家は、生地をイタリアの町とする説や、貴族の出、父はスペインの軍人といった説を伝えたが、20世紀に見つかった記録によって、いずれも誤りとわかっている。バレンシアで画家フランシスコ・リバルタに師事したという説もあるが、確かな証拠はない。ロンバルディアを遍歴し、1610年代初めにパルマに着き、画家として一定の評価を得たとされる。初期の画風は北イタリアの自然主義と、カラヴァッジョの影響が強かった。1613年10月までにはローマのサン・ルカ美術アカデミーの会員となっており、1615年から翌年にかけては、当時「外国人の街」と呼ばれた通りに、兄弟や他の画家たちと放縦な暮らしをしていたようだ。到着後まもなく画家として名声を得て大きな収入を得たが、怠け癖や浪費も記されている。
1616年にスペイン領だったナポリに移り、同年11月にシチリアの画家の娘カテリーナ・アッツォリーノと結婚した。以後は死ぬまでナポリで活動し、多くの弟子を持つ工房を構えて、国際的な名声を確立した。この地では歴代のスペイン人副王の庇護を受け、彼らを通じてスペイン王室などの重要な顧客を得た。1626年には教皇ウルバヌス8世からキリスト勲章の十字章を授けられた。一方、17世紀初頭以降、暗い画面のテネブリスモの画家たちの表現は、ムリーリョらの恍惚とした日常感のある親密さの前に人気を取られることとなり、その影響か、1630年以降は主題の幅を広げ、ボローニャ派の古典主義を吸収して、安定した構図と明快な色彩、静謐な抒情性を備えた画風を作った。
作品の大部分は宗教画で、聖人や殉教者の像を得意とした。明暗の対比を強調した画面や、老いた聖人の衰えた肉体やたるんだ皮膚を美化せずに描く写実表現には、カラヴァッジョの影響がうかがえる。庶民をモデルにした写実主義的な画風も確立し、現存作の半数近くは、労働者や物乞いをモデルに、哲学者や聖人に扮させた半身像だという。代表作の1つ『えび足の少年』(1642年、ルーヴル美術館)は、不自由な右足の少年が屈託のない笑みで鑑賞者を見つめ、手に歩行用の杖と、人々に施しを勧める言葉が書かれた紙片を握っている。単なる風俗画ではなく、カトリック信徒の務めとしての慈善を勧める意味があるものと思われる。『ヤコブの夢』(1637年)や『聖フィリポの殉教』(1639年)もプラド美術館に収められている。
1643年に健康が衰えはじめ、制作量は減り、1649年には経済的な苦境にも陥ったが、体調が許すかぎり、最晩年まで高い評価を得る作品を描き続けた。1652年に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ヤン・ボト (1652年没)
- 陳洪綬 (1652年没)
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同じ地域に関係する人物
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- フアン・デ・リベラ (1611年没)