伝記
岩田聡は、1959年12月6日に北海道札幌市の真駒内で生まれたゲームクリエイター、プログラマー、実業家である。父は北海道庁観光課に勤める公務員で、道庁の宿舎で幼年期を過ごした。小学校6年生のときに札幌冬季オリンピックが開かれ、近くにできた選手村にサイン帳を持って遊びに行き、開会式にも近隣の小学生として参加した。中学では合唱部に入り、新聞配達もした。電電公社のコンピュータの時間貸しサービスで、初めてコンピュータゲームに触れ、毎週日曜日に数取りゲームを勝つまで遊んだという。1975年に札幌南高等学校へ進み、プログラム電卓を知って、アルバイト代と父の援助で買い、独学でプログラムを学んだ。『スタートレック』を題材にした自作のゲームを友人に見せ、バレーボール部ではこの電卓で試合のデータを解析した。
1978年に東京工業大学工学部情報工学科に進んで上京し、大学1年のとき、入学祝いを頭金にローンを組んで、ホームコンピュータを買った。それを売っていた西武池袋本店に毎週のように通い、そこでプログラミングを愛好する友人と出会った。在学中は大手鉄鋼会社のシステムプログラムを150万円で請け負うアルバイトもした。店員が設立に関わった「ハル研究所」に誘われてアルバイトとして働き、卒業後はそのまま正社員となった。当時のハル研究所は社員5人の零細企業で、ソフトウェア開発の社員は岩田が第一号だった。両親は進路に反対し、父とは半年ほど口を利かなかったという。
入社2年目の1983年に任天堂からファミリーコンピュータが発売されると、京都の任天堂に出向いて仕事の請負を申し出て、『ピンボール』『ゴルフ』などのプログラムを担当した。『バルーンファイト』のファミコン版では滑らかな動きを実現し、そのノウハウは同年の『スーパーマリオブラザーズ』の水中面に生かされた。1992年にハル研究所が多額の負債を抱えて経営危機に陥ると、1993年3月に取締役開発部長だった岩田が社長に就任した。『星のカービィ』などのヒットもあり、15億円あった負債を6年間で完済した。社長業の傍ら、行き詰まっていた『マザー2』を引き受け、約1年で完成させた。『ポケットモンスター』を海外向けにするときも、複雑なプログラムをわずか1週間ほどで解析して、開発者を驚かせたという。
2000年6月、任天堂の社長山内溥に経営手腕を買われて入社し、2002年5月31日、42歳で社長に就任した。山内家の同族経営だった会社では異例の抜擢だった。2004年12月発売のニンテンドーDSを軸に「ゲーム人口の拡大」を掲げ、『脳を鍛える大人のDSトレーニング』は社会現象となった。2006年11月19日にはWiiを発売した。同年から社内の開発者に聞く企画「社長が訊く」を始め、2011年には新作の情報を直接動画で伝える試みも始めた。3DSやWii Uの販売は苦戦し、2012年3月期は赤字に陥った。2014年6月に胆管腫瘍が見つかり、切除手術を受けて復帰したが、2015年7月11日、社長在職中のまま、京都大学医学部附属病院で亡くなった。2015年3月期には4期ぶりの営業黒字に回復し、新型ゲーム機を開発中であることを発表した直後だった。
同じ年に亡くなった人物
- リチャード・ヘック (2015年没)
- マーティン・ミルナー (2015年没)
- クラーク・テリー (2015年没)
- リーチオ・ジェッリ (2015年没)
- Philip Potter (2015年没)