HISTORICAL PERSON · 2015年没

ジョルジュ・ウォランスキ

フランスの風刺漫画家。『シャルリー・エブド』の編集長を務め、多くの新聞に風刺画を描いた。2015年のシャルリー・エブド襲撃事件で、イスラム過激派に殺害された。

生涯
2015年没
死亡地
フランス共和国(パリ / 11区)
出生地
チュニジア共和国(チュニス)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ジョルジュ・ウォランスキは、1934年6月28日に、当時フランス領だったチュニジアのチュニスで生まれた漫画家であり、風刺画家である。母ローラ・ベムバロンはイタリア系フランス人で、父ジークフリート・ウォランスキはポーランド系ユダヤ人だった。2歳だった1936年に、父が元従業員に殺され、母も病気がちだったため、母方の祖父母に育てられた。第二次世界大戦直後の1945年にフランス本土に移住した。高校のころにはすでに、『解放された高校生』という学校新聞を発行していた。1961年にジャクリーヌ・サバと結婚して二人の子をもうけたが、ジャクリーヌは1966年に交通事故で亡くなった。

最初は、フォントネー=スー=ボワの義父の織物会社で働き、1958年に園芸雑誌『リュスティカ』の編集スタッフに加わった。風刺雑誌『アラキリ』の編集長フランソワ・カヴァナに風刺画を送ったのがきっかけで、1960年に同誌に参加し。この雑誌は、ジョルジュ・ベルニエ(「ショロン教授」)とカヴァナが創刊したものである。1968年には別の雑誌に参加し、ここで作家でジャーナリストのマリーズ・バシェールと出会い、のちに結婚した。企業の広告の仕事も多く引き受けた。フランスの五月革命の間は、シネとともに『過激派』を創刊し、政治色の強い風刺画を発表した。この新聞は短命だったが、以後は『アラキリ・エブド』でも、政治や社会を批判する風刺画を描くようになった。

『フランス・ソワール』の社会批判のページにも風刺画を載せたが、社会だけでなく、この新聞の経営者のことも批判したため、まもなく離れることになった。1970年から1981年まで、月刊誌『月刊シャルリー』の編集長を務めた。『アラキリ』が発禁処分を受けた後は、『シャルリー・エブド』に参加し、ここが活躍の舞台となって、「ウォランスキ風」と呼ばれる画風を確立した。「社会主義とは大麻のようなものですね。それ自体は無害でも、共産主義のようなもっと強い薬物を求めるようになりますから」といった名言も生み出した。

共産党の機関紙『リュマニテ』の編集長ローラン・ルロワは、ウォランスキのユーモアが気に入り、同紙の公式の風刺画家にならないかと提案して、「思う存分、飛び跳ねていい」と約束した。ウォランスキは「正直になるのは楽しいから」と引き受け、カヴァナをひどく失望させた。それまでのトレードマークだった辛辣さは影を潜め、滑稽さを際立たせる画を描くようになり、以後は『アラキリ』や『シャルリー・エブド』にも同様の風刺画を載せた。最後には、グラビア誌『パリ・マッチ』にも画を載せ、ジャン=ジャック・サンペ風の画を描いた。1965年の『嘆かわしい話』以来、数多くの画集や漫画を出している。

1998年に全作品について賞を受け、2005年には全作品によりアングレーム国際漫画祭のグランプリを受賞し、同じ年にレジオン・ドヌール勲章を贈られた。2006年3月には、ムハンマドの風刺画をめぐる事件に関わった風刺画家に敬意を表す夕べが開かれ、文化相から、風刺漫画の伝統を守り、促進するための使命を与えられた。2011年には、過去50年間の自作約千枚を、フランス国立図書館に寄贈した。2015年1月7日、シャルリー・エブド襲撃事件で、イスラム過激派に殺害された。

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