伝記
ギュンター・グラスは、1927年10月16日に、国際連盟の管理下にあった自由都市ダンツィヒ(現在のグダニスク)で生まれたドイツの小説家、劇作家、版画家、彫刻家である。両親は雑貨商を営み、父はドイツ人でプロテスタント、母はカシューブ人でカトリックだった。父は1936年にナチス党に入党し、ダンツィヒがナチス・ドイツに占領されると下級官吏となった。少年のころはナチス・ドイツの影響を受けて愛国心の強い少年に育ち、ナチス系の雑誌の懸賞作文に応募したこともある。
15歳でドイツ空軍の補助員となり、1944年には武装親衛隊に召集されて第10SS装甲師団の装甲狙撃兵とされたが、実情は兵士と言える状況ではなかった。1945年4月、部隊はコトブスでソ連軍の攻撃により壊滅し、本人も負傷して野戦病院に運ばれた。その後バイエルン州でアメリカ軍の捕虜となり、親衛隊が強制収容所を運営していたことを知って衝撃を受けた。1946年に釈放されたが、故郷のダンツィヒは既にドイツ領ではなく、ラインラントで農業に、ハノーファーで鉱山に従事した。鉱山で出会った同僚たちの影響で、社会民主主義に同調していく。1947年に石工として修業し、翌年デュッセルドルフ美術アカデミーに入って彫刻と絵画を学び、のちベルリン芸術大学に籍を置いた。美術学生のころにヒッチハイクで旅行したイタリアやフランスで、後の妻アンナと出会い、1954年に結婚した。
1955年に、妻と妹が南ドイツ放送の詩のコンテストにグラスの詩を無断で応募したところ3位に入賞し、これを機に作家集団の47年グループから招待を受けた。会合で自作の詩を朗読して高い評価を得、同グループの文学賞を受けた。詩集は700部しか売れず、ベルリン芸術大学を退学して、1956年から妻とパリに移った。1959年に出版した『ブリキの太鼓』は高く評価され、十数か国語に翻訳され、のちに映画化された。3歳で自分の意思で成長を止めた少年オスカルの視点から、ナチス・ドイツの台頭から戦後の復興までを描いた作品で、フランス旅行で見た、ブリキの太鼓で遊ぶ男の子から着想を得たという。1961年の『猫と鼠』、1963年の『犬の年』とあわせて、ダンツィヒ三部作と呼ばれる。
1960年代からは政治活動に身を投じ、社会民主党のヴィリー・ブラントを応援して、選挙の応援演説を1965年に52回、1969年に190回、1972年に129回行った。1974年にはカトリック教会を脱会している。ドイツ再統一には批判的で、国家連合の構想を唱えた。1986年から翌年にかけてインドのカルカッタのスラムに滞在し、その経験からエッセイ『舌を出す』を書いた。1995年の『はてしなき荒野』は、旧東ドイツを舞台とした作品で、デア・シュピーゲル誌の表紙に批評家が作品を引き裂く写真が出るほどの話題を呼んだ。1999年にノーベル文学賞を受賞し、賞金をマイノリティ保護に使うと宣言した。
2006年の自伝的小説『玉ねぎの皮をむきながら』で、戦争末期に武装親衛隊に召集されたことを告白し、同年8月11日の新聞のインタビューで事実と言明した。この告白はドイツ国内に大きな波紋を呼び、ポーランドの元大統領ワレサらは、出生地グダニスクの名誉市民の称号の返上を求めた。半ば強制的な編入だったこともあり、批判の声は次第に少なくなったが、本人は隠していたことを誤りと認め、12月に予定されていた賞の受賞を辞退した。2012年にはイスラエルを批判する詩を各国の新聞に発表し、同国から入国禁止処分を受けた。2015年4月13日に死去した。
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