HISTORICAL PERSON · 2015年没

マチュー・ケレク

ベナンの政治家。クーデターで1972年に大統領となり、1991年までと1996年から2006年まで、計29年にわたり同国の大統領を務めた。

生涯
2015年没
死亡地
ベナン共和国(リトラル県 / コトヌー)
出生地
ベナン共和国(Kouarfa)
出典
世界地図
ベナン共和国(リトラル県)

伝記

マチュー・ケレクは、1933年9月2日にベナン北西部の村で生まれた政治家である。ダオメー共和国時代の1972年からベナン共和国時代の1991年まで、また1996年から2006年までの合計29年にわたり、同国の大統領を務めた。軍人として歩み、フランス植民地軍に入り、現在のマリやセネガルにある軍学校で学んだとされる。1960年に仏領ダオメーがダオメー共和国として独立するとベナン陸軍に加わり、1961年から1963年まで大統領ユベール・マガの副官を務めた。マガが同じ北部の出身だったために引き立てられたといい、マガ失脚後も昇進を重ねた。1967年12月には、従兄弟のモーリス・クアンデテによるクーデターに従い、クリストファ・ソグロの独裁政権を打倒して、軍事革命評議会の議長となった。のちにフランスの軍学校で学び、少佐、副参謀長、空挺部隊の司令官となった。

1972年10月26日に再びクーデターを起こした。マガ、スル・ミガン・アピティ、ジャスティン・アホマデグベの三人が輪番で権力を担う大統領協議会を倒し、大統領に就任した。この年の前半には、マガが権力をアホマデグベに引き継いだばかりだった。最初の二年間は民族主義を唱えるだけで、共産主義も資本主義も社会主義も望まないと語っていたが、1974年11月30日にマルクス・レーニン主義の採用を表明した。翌年11月に国名を「ベナン人民共和国」へ改め、銀行や石油産業を国有化して、一党独裁の政党であるベナン人民革命党を結成した。1972年12月に中華人民共和国と国交を樹立している。この転換には、新政権に正統性を与え、前の政権との違いを示すための現実的な判断があったともいわれ、本人は急進左派ではなかったとの見方もある。

政権は北部出身の将校が次第に優位に立ち、民族に基づかない体制という建前は揺らいだ。マルクス主義を掲げ、西サハラの解放を目指すポリサリオ戦線を支援したため、フランスや周辺国との関係は悪化し、1977年1月17日にはフランス人傭兵ボブ・ドナールに託されたクーデター未遂事件が起きたが、完全に失敗した。国有化政策はすぐに挫折し、軍と急進派の対立などで政情不安を招いたため、1980年代前半から国営企業の閉鎖や外国投資の誘致など路線の修正を図り、西欧諸国に接近した。1980年に革命国民議会から大統領に選ばれ、1987年に軍を退いた。1989年には国際通貨基金の構造調整計画を受け入れて財政支出を大きく削ったが、経済は悪化し、同年1月に学生のストライキが始まって、要求は給与の未払いから政治改革へと広がった。

1990年、経済政策の失敗で民主化運動が激化すると、民主化勢力の要求を受け入れて複数政党制を認め、国民会議を招集した。国民会議は、ケレクが穏やかに譲歩したことを評価し、大統領時代の免責を与え、実権は制限しつつも地位と名誉は保証した。1991年の民主的な大統領選挙ではニセフォール・ソグロに敗れて下野したが、1996年の選挙で今度はソグロを破って当選し、2001年の選挙でも再び破って、批判を受けながら再選された。1996年以降は市場経済化を進め、アフリカ諸国に平和維持部隊を派遣するなど積極的な運営を行った。2002年には、日本のタレントでベナンの外交官でもあるゾマホン・ルフィンに国民栄誉賞を与えている。憲法の三選禁止の規定を守って2006年3月に任期満了で退陣し、ヤイ・ボニが次の大統領となった。2015年10月14日に82歳で死去した。

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