HISTORICAL PERSON · 2015年没

アシア・ジェバール

アルジェリアの小説家・映像作家。2005年にマグレブ出身者として初めてアカデミー・フランセーズ会員となり、アルジェリアの女性たちを描いた作品で知られる。

生涯
2015年没
死亡地
フランス共和国(パリ / 19区)
出生地
アルジェリア(シェルシェル)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

アシア・ジェバールは、1936年6月30日にアルジェリアのアルジェ県(現ブイラ県)の小村ウレド・ハムで、ファーティマ=ゾフラー・イマライェーヌとして生まれた小説家、映像作家、大学教員である。母方の祖先は、フランスの植民地化に抵抗してアブド・アルカーディルとともに戦ったベルカニ族で、父タハルの祖先はベルベル人であった。父は小学校の教員で、自らフランス語を身につけて教えており、娘をフランス語の学校に入れた。彼女はほかの部族の言語も学び、コーランの教えに基づくマドラサにも通った。広く外に開かれたこの教育は、父の影響によるものだった。ブリダのリセで古典文学、特にギリシア・ラテンの古典を学び、バカロレアの取得後はアルジェのリセの準備級に進み、校長の勧めで1954年10月にフランスへ渡った。

1955年、アルジェリアの女性として初めて高等師範学校(通称セーヴル高等師範学校)に入学し、歴史学を専攻した。渡仏の直後にアルジェリア独立戦争が起こり、1956年にはアルジェリア・イスラム教徒学生総同盟が講義と試験のボイコットを呼びかけた。この運動を支持した彼女は、高等師範学校の試験を受けず、学位を取らなかった。1958年に民族解放戦線の活動家アフメド・ウルド=ルイスと結婚してチュニスへ亡命し、国境近くで難民への取材を行って現地の歴史と文化を調べた。この調査はのちの研究の基盤となり、取材内容は精神科医で独立運動家のフランツ・ファノンが寄稿する新聞にも載った。続いてモロッコに移り、1959年から1962年までラバト文科大学でマグレブ近現代史を教えた。

1957年、20歳で処女作『渇き』を発表し、このとき初めてアシア・ジェバールの筆名を用いた。奔放な若いアルジェリア女性を主人公とする小説で、フランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』に通じるところから、「アルジェリアのサガン」と呼ばれた。独立後の1962年に帰国してアルジェ大学で歴史学を教えたが、アラブ化政策で講義にアラビア語が義務づけられたため、いったん教職を離れ、1974年から1980年まで再び同大学で文学と映画を担当した。1980年に短編集『居室のなかのアルジェの女たち』を発表し、ドラクロワやピカソの絵に描かれた女性たちに独自の解釈を試みた。この間、母方の部族の土地で農業を営む女性たちに聞き取りを重ね、『シェヌア山の女たちのヌーバ』(1978年)と『ゼルダ、あるいは忘却の歌』(1982年)の2本の映画を作った。前者は1979年にヴェネツィア・ビエンナーレで国際批評家賞を、後者は1983年にベルリン国際映画祭で歴史映画最優秀賞を受けている。

1980年にアルジェ大学を辞してパリ郊外に居を移し、執筆に専念した。『愛、ファンタジア』(1985年)や『メディナから遠く離れて』(1991年)など歴史に基づく小説を書き、2002年に『墓のない女』を発表した。1995年からルイジアナ州立大学、2001年からはニューヨーク大学で教え、1999年に博士号を得た。2005年にマグレブ出身者として初めてアカデミー・フランセーズの会員に選ばれ、400年近い歴史で5人目の女性会員となった。ノイシュタット国際文学賞やドイツ書籍協会平和賞も受賞し、2015年2月6日に亡くなった。

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