伝記
ジョアン4世は、1604年3月、ヴィラ・ヴィソーザで生まれた。ブラガンサ朝の初代ポルトガル国王で、「再興王」と呼ばれる。ブラガンサ家は、アヴィス朝の初代国王ジョアン1世の庶子ブラガンサ公アフォンソ1世を祖とする家系で、王家と通婚も重ねたポルトガルの有力貴族であった。彼は第7代ブラガンサ公テオドジオ2世と、スペイン貴族フリアス公の娘アナ・デ・ベラスコの間の嫡子として生まれた。祖母カタリナは、マヌエル1世の孫にあたり、自身の権利としてポルトガル王女の称号を持っていた。1580年の王位継承の危機では、枢機卿王エンリケ1世の姪だったカタリナが次期王位継承候補に挙がったことがある。1630年に父が亡くなると、彼はジョアン2世として第8代ブラガンサ公位を継いだ。系図学者によれば、この若き公は金髪で、中背だったという。
1580年以後、ポルトガルはスペイン・ハプスブルク家の王の下でスペインと同君連合となっていたが、独立の気運が高まっていた。ブラガンサ家は王国で大きな威信を保つ一方、フェリペ王家の統治は、オリバーレス伯公爵の中央集権的な政策と税負担の増加で消耗していた。カタルーニャの反乱で、ポルトガル貴族がその鎮圧に動員されたことも不満を強め、海外の植民地はオランダの攻撃にさらされていた。ジョアンは、貴族の自治への願いを担う主な人物とみなされ、マヌエル1世の子孫でもあることから、陰謀者たちに王位候補として選ばれた。彼は革命の企てに一度は躊躇したが、妻ルイサ・デ・グスマンに「奉仕して一生を終わるより、統治して死ぬ方がましでしょう」と励まされ、首謀者となった。
1640年12月1日、貴族40名らとともにリベイラ王宮へ乱入した。カタルーニャ叛乱で兵を手薄にしていたスペイン軍は、なすすべもなかった。同年12月15日にジョアンはリスボン大聖堂で国王に即位し、翌1641年1月にはコルテスにも承認された。スペインとの間に始まったポルトガル王政復古戦争では、1644年のモンティージョの戦いなどが戦われ、彼はフランスと同盟し、この同盟は1659年のピレネー条約まで続いた。オランダには1641年にマラッカを奪われたが、ブラジルではグアララペスの戦いで勝ち、海外ではオランダに占領されていたアンゴラの一部とサントメ島を奪還した。1646年には、ヴィラ・ヴィソーザの教会で、王冠を無原罪の聖母の足元に象徴的に捧げ、聖母をポルトガルの守護者と宣言した。
ジョアン4世は音楽の熱心な後援者であっただけでなく、自らも作曲を行い、最も有名な作品に教会合唱曲『クルックス・フィデリス』がある。同時代では最大級の音楽図書館を築き、これは1755年のリスボン大地震で失われた。1649年には、現代音楽を擁護しパレストリーナの思想を支持する著書を出版した。宗教裁判所とは、1641年の陰謀にかかわった宗教裁判長官との関係や、財産没収の妨害をめぐって対立し、1647年と1649年に破門された。1633年にルイサ・デ・グスマンと結婚して7人の子をもうけ、娘カタリナはイングランド王チャールズ2世の王妃となった。1656年11月6日に死去し、息子のアフォンソ6世が跡を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハン・ゲオルク1世 (ザクセン選帝侯) (1656年没)
- ジョセフ・ホール (1656年没)
- アニエロ・ファルコーネ (1656年)
- プラーサートトーン (1656年没)
- ローラン・ド・ラ・イール (1656年没)
同じ地域に関係する人物
- ルイス・デ・フレイタス・ブランコ (1955年没)
- マルティン・ベハイム (1507年没)
- マリアノ・アリスタ (1855年没)
- ジョアン・セーザル・モンテイロ (2003年没)
- アントニオ・サラザール (1970年没)