HISTORICAL PERSON · 2016年没

プリンス (ミュージシャン)

ミネアポリス・サウンドの中心的存在。生涯に39枚のアルバムを出し、「パープル・レイン」などが代表曲。死後、金庫室から未発表アルバムが多数見つかった。

生涯
2016年没
死亡地
アメリカ合衆国(ミネソタ州 / チャンハッセン)
出生地
アメリカ合衆国(ミネアポリス)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ミネソタ州)

伝記

プリンス・ロジャーズ・ネルソンは、1958年6月7日にミネソタ州ミネアポリスで生まれたミュージシャンである。シンガーソングライター、作曲家、プロデューサー、俳優、映画監督でもあり、ミネアポリス・サウンドの中心的存在だった。ジャズ・ピアニストだった父ジョン・L・ネルソンが、1960年代の終わりまで芸名「プリンス・ロジャー」でバンドを率いていたことから、その名を息子に付けた。母マティは17歳年下のジャズ歌手だった。本人が話題づくりのために広めた逸話には、父が黒人で母が白人というものがあるが、実際は両親ともに黒人だった。幼いころはてんかんの持病があり、しばしば発作に見舞われた。

1966年に両親が離婚し、父が家を出た。再婚した母の継父は、10歳のプリンスをジェームス・ブラウンのコンサートに連れて行き、ステージに上げたという。これが後の音楽への影響にもなったが、継父とは折り合いが悪く、家出を繰り返した。中学校のころ、友人や従兄弟らとバンドを組み、成長するにつれて頭角を現した。シンセサイザーを主体としたファンク音楽の運動の中心として注目され、1977年、複数のメジャー・レーベルによる入札の結果、ワーナー・ブラザースと契約した。19歳としては異例の高額な契約金と、自ら制作する権利を同時に得た。

1978年4月、たった一人でデビュー・アルバム『フォー・ユー』を作り、キャリアを始めた。1979年には、ほとんど一人で作った第2作『愛のペガサス』を出し、「アイ・ウォナ・ビー・ユア・ラヴァー」が全米シングルチャートの11位に入る大ヒットとなって、その名が広く知られた。1980年の『ダーティ・マインド』は、本来発表するつもりのなかったデモテープだったが、マネージャーの勧めで世に出た。収録曲の詞が性的に露骨すぎるとされ、放送禁止になって話題を集めたものの、売り上げは前作を下回った。1981年には『戦慄の貴公子』を出した。このころ、ローリング・ストーンズの前座として巡業したが、観客からビール瓶やキャベツを投げつけられたという。

1982年ごろ、バックバンドを「ザ・レヴォリューション」と名づけた。2枚組の『1999』でついにブレイクし、全米で400万枚を売り上げ、MTVで初めてミュージック・ビデオが流れた黒人アーティストとして、マイケル・ジャクソンと並んで名が挙がる。1984年には、自伝的な映画『プリンス/パープル・レイン』に初主演し、そのサウンドトラックのアルバムが大ヒットした。発売初週に100万枚を売り上げ、全米アルバムチャートの首位に24週間とどまった。「ホエン・ダヴズ・クライ」と「レッツ・ゴー・クレイジー」の2曲が1位となり、映画の興行、アルバム、シングルの三つで全米1位を獲得した。映画はアカデミー賞の歌曲・編曲賞も受けた。その収益で、自らのレーベル「ペイズリー・パーク・レコード」を設立した。

1986年には、自ら監督した映画のサウンドトラック『パレード』を出し、「キッス」が全米シングルチャートの1位となった。この年に初来日し、ツアーの千秋楽の横浜スタジアム公演で、ザ・レヴォリューションは解散した。1987年には2枚組の『サイン・オブ・ザ・タイムズ』を発表した。作詞、作曲、歌唱、演奏、プロデュースのすべてを自ら行う姿勢を貫き、27種類以上の楽器を演奏したとされる。歌の題や歌詞では、同じ音の文字や数字を使い、イメージカラーは紫だった。生涯で39枚のアルバムを出した。2016年4月21日に亡くなった。

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