HISTORICAL PERSON · 2017年没

マリオ・ソアレス

ポルトガルの政治家。独裁体制に反対して逮捕や亡命を経験し、1974年のカーネーション革命後に外相となり、首相や大統領を歴任した。

生涯
2017年没
死亡地
ポルトガル共和国(リスボン県 / リスボン)
出生地
ポルトガル共和国(リスボン)
出典
世界地図
ポルトガル共和国(リスボン県)

伝記

マリオ・アルベルト・ノブレ・ロペス・ソアレスは、1924年12月7日、リスボンに生まれた政治家である。父ジョアン・ロペス・ソアレスは、リスボンの私立学校を創設した教育者で、元聖職者だった。のちに大臣や反ファシズムの共和主義者の活動家となった。母エリザ・ノブレ・バティスタは、下宿屋を経営していた。父が司祭のころに母を身ごもったため、両親が結婚したのは1934年で、マリオはもうすぐ10歳になるところだった。教会での結婚はできず、役所に届け出る形で式を挙げたが、父は生涯カトリックの信仰を持ち続けた。リスボン大学で歴史、哲学、法律を学び、1957年に大学教員と弁護士になった。

若いころから、独裁体制に反対する運動に加わり、はじめは共産党の末端の党員で、のちに非共産党の野党勢力に属した。サラザール首相の独裁体制に反対する活動で、秘密警察に12回も拘束され、約3年を獄中で過ごし、さらにサントメ島に流された。マルセロ・カエターノ政権が帰国を認めたものの、1969年の選挙で、リスボンの名簿の筆頭に立った後、国を離れざるを得なくなり、1970年にフランスへ亡命した。ヴァンセンヌ大学、パリ大学、レンヌ大学で教え、亡命先のポルトガル社会党に入って、書記長に推された。党の共同創設者の一人とされる。

1974年4月25日にカーネーション革命が起きると帰国し、社会党の代表として臨時政府で外相を務めた。新しい政権では共産党の勢力の拡大を抑え、選挙の実施を強硬に求めた。植民地の独立も推し進め、これは一部の引揚者から反発を受けたが、少数だった。1976年、最初の民主的な総選挙で社会党が勝つと、エアネス大統領のもとで最初の首相となった。政権は議会との緊張や財政危機、革命後に停滞した経済の立て直しに直面し、アメリカから大きな借款を受けることを交渉した。同時に、ヨーロッパ共同体への加盟をめざして他の欧州の指導者との接触を深めた。1979年から83年は野党の指導者で、1982年には保守派の政党と協力し、憲法の改正により革命評議会を廃止した。1983年に再び首相となり、国際通貨基金の介入を受ける新たな財政危機のなか、ポルトガルのヨーロッパ共同体加盟を正式に実現した。この加盟は首相としての最大の功績とされる。首相には、1976年から1978年と、1983年から1985年の二度就いた。

1986年の大統領選挙に出馬し、第2回投票で僅差で勝って、革命後最初の文民の大統領となった。1991年に大差で再選され、1996年まで10年にわたって大統領を務めた。議会の勢力関係から、保守派のカヴァコ・シルヴァを首相に任命して政権の運営にあたらせたが、その政府とは緊張も生じた。人々との近さを重んじる新しい大統領の姿を示し、外国でのポルトガルの存在感を高めた。人権問題でも、国際的にたびたび発言した。大統領を退いたのちは、1999年から2004年まで社会党のヨーロッパ議会議員を務めた。歴史家としての著書は30冊を超える。日本には大統領在任中に4度訪れ、1993年には日本とポルトガルの交流450周年を記念して国賓として来日した。2017年1月7日、リスボンで92歳で亡くなった。

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