HISTORICAL PERSON · 2017年没

ミハイ1世 (ルーマニア王)

ルーマニア王国の最後の国王。1944年にクーデターでアントネスクを追放して連合国側につき、のち王政廃止で亡命した。

生涯
2017年没
死亡地
スイス連邦(ヴォー州 / オボンヌ)
出生地
ルーマニア(Foisor Castle)
出典
世界地図
スイス連邦(ヴォー州)

伝記

ミハイ1世は、1921年10月25日にルーマニア王太子カロルと、ギリシャ国王コンスタンティノス1世の長女エレーニの長子として、ペレシュ城で生まれた。イギリス女王ヴィクトリアの玄孫にあたる。1927年に祖父フェルディナンド1世が崩御した。父カロルは数々の醜聞により1925年に王位継承権を放棄し、愛人とともに国外へ逃亡していたため、わずか6歳の王孫ミハイが即位することになった。幼君を補佐するため三人の摂政が置かれた。しかしその3年後、父が突然帰国してミハイを退位させ、自らカロル2世として即位した。退位したミハイは父の王太子と定められた。

カロル2世の10年間の親政は安定せず、1940年には周辺諸国の領土割譲要求にすべて応じた。これに反発したイオン・アントネスクの圧力で、カロルは退位して再び亡命し、ミハイが王位に返り咲いた。1940年9月6日に、ブカレストの総主教座大聖堂で、ルーマニア正教会の総主教によって王として聖別された。ただ、実際にはほとんどの権限を行使できず、国家指導者に就いたアントネスクが独裁権を握った。1941年6月に独ソ戦が始まると、ルーマニアも枢軸国側に立って参戦した。

ドイツが劣勢になり、アントネスク政権が動揺すると、1944年8月23日、ミハイは国防大臣らと謀ってクーデターを起こし、アントネスクを追放して、連合国側につくことを宣言した。しかしソ連軍の占領は免れず、ルーマニア軍兵士13万人が捕虜としてソ連に送られ、その多くが消息を絶った。ミハイは親共産党政府の任命を強要され、政府から求められた文書への署名を拒む「国王のストライキ」で対抗したが、ソ連に加えて米英も政府に従うよう求めたため、非協力を断念した。1947年12月30日、親共産党の陸軍部隊に包囲されるなか、事前に用意された退位文書に署名し、亡命に追い込まれた。電話回線を切られ、王に忠実な部隊を呼び出すこともできなかった。ソ連軍の司令官が、退位しなければ逮捕者を処刑すると脅したと伝えられる。

退位の翌年の1948年に、ブルボン=パルマ家のアンヌ・アントワネットと結婚し、5人の娘をもうけた。亡命当初は「ホーエンツォレルン公」を名乗ったが、すぐに、退位は強制であり無効だとして、ルーマニア国王の称号を再び名乗った。スペインに渡り、航空会社のパイロットなどをして暮らし、1960年代にはリアジェットの創業者ビル・リアと知り合って、最初の製品のテストパイロットとしても働いた。1989年のルーマニア革命の後、1992年に一時帰国を許されたが、イリエスク政権に警戒され、再び帰国を阻まれた。1997年に50年ぶりに市民権を回復し、スイスとルーマニアを行き来した。

2001年7月には、娘のマルガレータ王女とともに政府から特別な地位を与えられ、住居と生計と活動費が国庫で保証された。北大西洋条約機構とEUへの加盟のため、欧州各国の王室との縁戚関係を生かそうとする政府の意図によるものだった。大統領や首相から「陛下」と呼ばれ、国は君主制と共和制の折衷のような状態になった。90歳の2011年10月25日には、退位後初めて議会で演説し、国家の誇りの回復と民主主義の強化を訴えた。2016年3月に慢性白血病などの治療のため公的活動から引退し、2017年12月5日、スイスの自宅で96歳で死去した。12月16日にブカレストの旧王宮前で国民葬が営まれ、5万人以上が棺の車列を見送った。

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