HISTORICAL PERSON · 2017年没

ハーシェミー・ラフサンジャーニー

イランの政治家で、第4代大統領を務めた。若くからホメイニーに師事し、シャー体制との闘争に加わった。

生涯
2017年没
死亡地
イラン共和国(テヘラン州 / テヘラン)
出生地
イラン共和国(Bahreman)
出典
世界地図
イラン共和国(テヘラン州)

伝記

アクバル・ハーシェミー・ラフサンジャーニーは、1934年8月25日に、イラン南東部ケルマーン州のバフラマーンで生まれた政治家で、第4代の大統領を務めた。日本では、長音を省いてハシェミ・ラフサンジャニと書かれることも多い。ピスタチオを作る豊かな地主の家に生まれ、父のミールザー・アリーはウラマーで、州でも有数の農業主だった。両親には9人の子がいた。5歳で伝統的なイスラムの学校に通い始め、14歳の1948年に、生家を離れてシーア派の聖地ゴム市の神学校に進んだ。そこでルーホッラー・ホメイニーらに師事し、イスラム法や倫理、神秘思想を学んだ。1958年にエッファト・マラシーと結婚し、5人の子を得た。

1950年代の初めに、王政の体制との闘いに加わった。当時は、国家の独立の強化を唱えたモサッデグ博士の熱心な支持者で、クーデターでモサッデグ政権が倒れると、当局の要注意人物に入れられた。1960年代に、パフラヴィー体制が経済の悪化と政治危機の中で「白色革命」と呼ばれる改革に着手すると、ウラマーの権限を侵すものもあり、ホメイニーはゴムで蜂起したが鎮圧された。ラフサンジャーニーを含むホメイニーの弟子たちは投獄された。その後も彼は何度も逮捕され、1958年から1978年の間に、七度、合計で4年5か月の獄中生活を送った。ホメイニーの資金の管理や、国内の諸集団の調整も任された。革命までの数年間は、欧米や日本を訪れ、広島の平和記念資料館のノートには、彼と思われる記名が残っている。

1979年のイラン・イスラム革命の後、内務大臣に任命された。革命の指導者へのテロが相次ぐなか、空手で暴漢を撃退したという噂が広まり、人気が上がった。テロでアリー・ハーメネイー大統領が負傷すると、テヘランの金曜礼拝の導師の座を占め、ホメイニーに次ぐ立場を得た。1980年には議会の議長となり、議会をホメイニーの側近グループに次ぐ権力機関に変えた。イラクとの戦争では、国防最高会議でホメイニーの私的代理人を務め、のちに軍の最高司令官となった。1988年7月、ホメイニーがイラクとの停戦を受け入れたのは、彼の説得が大きかったといわれる。正規軍への均衡の力として、イスラム革命防衛隊を組織した。

1989年7月28日、投票総数の95パーセントを集めて大統領に選出された。穏健な現実主義者と見られ、民営化などで経済の活性化を図り、西側との関係改善のため、アメリカとの関係の正常化を不可欠と考えて融和路線をとった。女性の権利の拡大にも取り組み、革命初期に禁じられていた音楽や映画の自由も広げた。しかし、保守派の反感を招き、経済も期待ほどには改善しなかったため、国民の不満も募った。1993年に再選され、1997年8月、連続3期目を禁じる憲法の規定に従って、大統領の座をモハンマド・ハータミーに譲った。

2005年の大統領選挙に出馬したが、マフムード・アフマディーネジャードに敗れた。2009年の選挙では、改革派のムーサヴィー候補を支援したと報じられ、討論会でアフマディーネジャード大統領から、一族の腐敗を名指しで非難された。2013年5月に立候補を届け出たが、監督者評議会の事前審査で失格となった。2017年1月8日、心臓発作により、テヘランの病院で死去した。

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