HISTORICAL PERSON · 2017年没

劉暁波

中国の著作家。民主化運動や人権活動で度々投獄され、獄中にあった2010年にノーベル平和賞を受賞し、服役中に亡くなった。

生涯
2017年没
死亡地
中華人民共和国(遼寧省 / 中国医科大付属第一医院)
出生地
中華人民共和国(長春市)
出典
世界地図
中華人民共和国(遼寧省)

伝記

劉暁波は、1955年12月28日に吉林省長春市で生まれた中華人民共和国の著作家である。元は北京師範大学中国語言文学系の講師で、民主化運動を始め広範な人権活動に参加し、度々投獄された。1969年、上山下郷運動が行われている間に、父とともに内モンゴルの農村に移った。1974年には「知識青年」として吉林省農安県へ行き、長春で建築作業員として働いたのち、1977年に吉林大学の文学部に入学した。1982年に学士号を取り、北京師範大学の修士課程に進んで1984年に文芸学の修士号を得た。同校で教壇に立ち、1980年代の半ばには文芸評論家の李沢厚に対する批判で、中国文壇の「ダークホース」と呼ばれた。1988年に論文「美学と人間的自由」で文学博士号を取得し、オスロ大学、ハワイ大学、コロンビア大学で客員研究員を務めた。

1989年に中国で民主化運動が起こると、コロンビア大学の客員研究者として米国に滞在中だったが、すぐに帰国を決めて運動に身を投じた。六四天安門事件の直前には、侯徳健、高新、周舵の3人の知識人とともに、学生たちの断食抗議に加わった。人民解放軍が天安門広場に入る寸前、4人は学生たちに武器を捨てるよう説得する一方で軍と交渉し、「四君子」と呼ばれた。事件の後は「反革命罪」で投獄され、1991年1月に釈放された。事件の指導者の多くが「病気療養」の名目で出国を許される中、劉は出国せずに文章を発表し続け、殉難者の名誉回復と人権の保障を呼びかけた。1995年5月から翌年1月までと、1996年10月から1999年10月までの労働教養と、さらに投獄が続いた。釈放後は北京の自宅でフリーライターとして多くの時事評論や学術論文を発表し、2003年には独立中文筆会の第2代会長に選ばれた。

2008年、世界人権宣言の60周年を機に発表された、中国の大幅な民主化を求める「零八憲章」の主な起草者となり、発表の直前に再び身柄を拘束された。無罪を主張したが、2009年12月25日に懲役11年と政治的権利剥奪2年の判決を受け、4度目の投獄として遼寧省の錦州監獄で服役した。2010年10月8日にノーベル平和賞の受賞が発表され、委員会は「中国における基本的人権のために長年、非暴力的な闘いをしてきた」ことを理由に挙げた。中国在住の中国人として初のノーベル賞受賞者となった。受賞が決まると、中国政府は強く抗議し、12月10日のオスロでの授賞式には、中国を含む17か国が欠席した。受賞者本人は出席できなかった。ノルウェー・ノーベル委員会の委員長は、演説の中で「劉は何も悪いことはしていない」と述べて釈放を求めた。

2017年6月、末期の肝臓癌と診断され、仮出所が認められて中国医科大学の病院に移された。国外での治療を求める声が国際社会から高まり、ドイツとアメリカが受け入れを表明したが、中国政府と医療チームは容態を理由に拒んだ。7月13日、劉は妻の劉霞ら家族に看取られ、肝臓癌による多臓器不全のため亡くなった。当局によれば、最期の言葉は妻への「あなたはしっかり生きなさい」「幸せに暮らして」だったとされる。当局は墓を作ることを認めず、遺骨は海に散骨された。受賞から死去まで一度も解放されなかったノーベル賞受賞者は劉のみである。2018年7月10日には、8年間自宅に軟禁されていた劉霞の出国が認められ、ドイツに到着した。

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