伝記
ヴァシーリー・ヴァシーリエヴィチ・ヴェレシチャーギンは、1842年10月26日に生まれ、1904年4月13日に没した、ロシアの画家である。ロシア帝国の中央アジア征服や露土戦争に従軍し、戦場をテーマにした作品を数多く残した。ノヴゴロド州チェレポヴェツで、三兄弟の真ん中として生まれた。父は貴族出身の地主で、母は庶民の出だった。八歳のとき、両親の希望で軍の幼年学校に入れられ、三年後にはペテルブルクの海軍士官学校に進んだ。1858年にフリゲート艦でデンマークやフランス、エジプトを訪れ、1859年に士官となったが、海軍学校を首席で卒業しながらも軍を辞し、本格的にデッサンを学び始めた。ペテルブルク美術学校では優秀な成績だったが、授業を退屈に思い、三年で退学した。1863年に帝室美術アカデミーのメダルを受け、1864年にパリへ渡って、エコール・デ・ボザールでジャン=レオン・ジェロームに師事したが、師の方法には大きく異を唱えた。
1867年、コンスタンティン・フォン・カウフマン将軍のトルキスタン遠征に誘われ、サマルカンド攻撃などを目撃した。1868年6月のサマルカンドの包囲戦での勇敢さにより聖ゲオルギー十字章を受けた。同年、カウフマン将軍の後援でトルキスタンをテーマとした個展を開いた。1870年代にはミュンヘンに滞在し、従軍中のスケッチを絵画として完成させる作業をした。関心は戦闘場面よりむしろ、中央アジアのエキゾチックな建築や風俗に向けられていた。1873年にはロンドンの水晶宮で個展を開き、翌年のペテルブルクの個展では、「戦争の礼賛」ともう一点が、ロシア軍を悪く描くとの理由で展示を拒まれた。1874年からはヒマラヤ、インド、モンゴル、チベットを二年以上かけて旅した。
1877年に露土戦争が始まると従軍し、司令官のはからいで副官の地位と軍内で自由に行動する権利を与えられた。シプカ峠の戦いを目撃し、プレヴェン攻略戦では兵士として従軍していた兄弟が戦死し、自身も重傷を負った。この悲惨な戦いは彼の世界観を変えた。以後は平和主義者として、戦争の悲惨さを、現地でのスケッチに基づく写実的な絵画で表した。彼の戦争画には死者、負傷者、略奪、野戦病院、雪に埋もれた兵士の遺体がよく登場する。英雄を礼賛するだけだった戦争画に、哲学的な意味を持たせた。こうしたテーマは、普段は美術に関心のない人々をも惹きつけ、1881年のパリを皮切りに、ロンドンやベルリン、ウィーンなどで展覧会が開かれた。
1884年には二度目のインド旅行をし、シリアやパレスチナにも足を延ばした。聖地を訪れてキリストの生涯を描く連作では、現地で見聞した風俗や風景を描き込み、キリストを中東の人間として描いて物議を醸した。1893年には、ナポレオンのロシア遠征をテーマとした連作を、モスクワで描き上げた。さらにアメリカ合衆国に渡り、米西戦争の戦場のキューバやフィリピンを訪れ、1903年には日本の京都や日光を訪問して、帰国後に日光東照宮や和服姿の女性像を描いた。1904年に日露戦争が始まると、旅順に移り、旅順艦隊司令長官マカロフに招かれて旗艦の戦艦「ペトロパヴロフスク」に乗り込み、戦争の風景を描いていた。4月13日、同艦は日本軍の敷設した機雷に触れ、わずか数分で火薬庫が爆発して、マカロフやヴェレシチャーギンをはじめ乗組員のほとんどが戦死した。最後の作品となったマカロフの幕僚会議のスケッチは、波間に漂っているところを拾われたという。その死は敵国日本でも報じられ、幸徳秋水や中里介山が追悼文を残した。
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