伝記
聖マルセラは、4世紀から5世紀初めにかけて西ローマ帝国で生きたキリスト教の禁欲的な女性で、325年ごろに生まれ410年に没したとされる。カトリックと正教会、聖公会で聖人とされ、記念日は1月31日である。
ローマのアヴェンティヌスの丘に宮殿を構える貴族の家に生まれた。ある研究者は、ヒエロニムスがローマに来る40年も前から、マルセラが自宅に女性たちを集めて聖書を学び祈っていたと述べている。敬虔で教養があり、裕福で慈善深い母アルビナの影響を受けて育った。まだ幼いころ、追放されていたアレクサンドリアの司教アタナシオスがローマを訪れている。結婚して7か月で夫を失うと、執政官ケレアリスの求婚を退け、東方の修道者たちの暮らしにならうことを決めた。酒と肉を断ち、読書と祈りに時を費やし、使徒や殉教者の教会を訪ね、男性と二人きりでは決して話さなかったと伝えられる。残る生涯を慈善と祈りと苦行にささげたのである。
マルセラの邸宅はキリスト教活動の中心となった。母アルビナとともに、東方の修道の伝統に触発された女性たちの集いを家の中につくり、パウラの三女エウストキウムもこの集いに加わった。家は現在のサンタ・サビーナ教会の近くにあったとされ、疲れた巡礼者や貧しい人々の拠り所になったという。同じく裕福な寡婦レアも、マルセラが営むこの家を支えた。従兄弟のパンマキウスは、ヒエロニムスの親しい友人で文通相手でもあり、パウラの次女パウリナと結婚している。パンマキウスはパウラの従兄弟でもあった。
382年、教皇ダマスス1世がヒエロニムスをローマに招き、ヒエロニムスは教皇の腹心の秘書となった。ダマススはその宿をマルセラの客をもてなす家に手配し、ヒエロニムスはマルセラの共同体や友人たちに講読や講義を行った。ヒエロニムスがパウラと初めて出会ったのも、マルセラの家だった。のちにパウラと娘エウストキウムが聖地へ向かうとき、マルセラも誘われたが、成長する共同体の世話をするためローマに残った。弟子のプリンキピアとともに、宮殿を離れてアヴェンティヌスの丘の小さな家へ移った。ヒエロニムスがローマを去った後には、ローマの司祭たちが聖書の解釈についてマルセラに意見を求め、オリゲネスをめぐる論争にも公に加わったとされる。
410年に西ゴート族がローマを略奪したとき、マルセラは85歳であった。隠した財宝があると思い込んだ兵士たちに、鞭打たれ、棍棒で殴られた。財宝はとうの昔に貧しい人々へ分け与えていたのである。やがて聖なるものへの敬意をいくらか持つ別の兵士たちが現れ、マルセラとプリンキピアを、アラリックが避難所と定めた城壁外の聖パウロ大聖堂へ送り届けた。疲れ果てて傷ついたマルセラは、数日後にその傷がもとで世を去った。マルセラについて知られることの多くは、ヒエロニムスの書簡による。研究者トマス・ローラーは、マルセラがその書簡の宛名として群を抜いて多いのは、アヴェンティヌスの丘の邸宅に集った宗教的な女性たちの輪で、指導的な立場にあったからだろうと述べている。マルセラに宛てた書簡が複数残り、現存するヒエロニムスの書簡の約3分の1が女性宛てで、その中でマルセラが最も多く宛名とされている。最期の様子は、プリンキピアに宛てた書簡127に詳しい。鞭打たれて間もなく亡くなったためか、ローマ殉教録に加えられた。聖公会の米国の教会暦にも1月31日の小祝日として載り、ジュディ・シカゴの作品『ディナー・パーティー』にも席が設けられている。
同じ年に亡くなった人物
- マロン (410年)
- 反正天皇 (410年)
- アラリック1世 (410年没)
- 大メラニア (410年)
- Gaudentius of Brescia (410年)
同じ地域に関係する人物
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- ガイウス・ユリウス・カエサル (紀元前44年没)
- アンドレアス・パレオロゴス (1502年没)
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