伝記
アタウルフは、西ゴート族の王である。370年頃に生まれ、415年8月15日に没した。在位は410年から415年とされる。アラリック1世の義理の兄弟にあたり、ゴート人の貴族アラテウスか、あるいはモダレスの子だった可能性が指摘されている。バルト家の一員で、アラリックが彼の姉妹を妻に迎えたことでも結びついていたとされる。二度結婚しており、最初の妻はサルマティア人の女性で、6人の子をもうけた。
名が初めて現れるのは401年ごろで、ゴート人の一隊を率いてパンノニアへ向かい、現地のゴート人の王を殺して勢力を広げたという。408年にはパンノニアでゴート人とフン人の混成軍を指揮していた。409年にはアルプスを越えてアラリックの援軍に向かったが、ピサ付近でフン人の小部隊に敗れた。それでも自軍をアラリックの軍と合流させた。同年には簒奪者プリスクス・アッタルスから騎兵の近衛伯に任じられ、宿敵のサルスとも戦った。410年8月24日にアラリックがローマを3日間にわたって掠奪した際、皇帝ホノリウスの姉妹ガッラ・プラキディアが捕らえられ、アタウルフの管理下に置かれた。
西ゴート族はシチリアに渡ろうとして南へ進んだが、船団が難破して頓挫し、帰途にアラリックが没した。アラリックには息子がなかったため、アタウルフが跡を継いだ。ただ、ほかに王位を狙う者がいたともみられる。食料に困窮した一行は412年にティレニア海沿岸を北上してアルプスを越え、ガリアに入った。ヨルダネスは、その通り道がイナゴの大群が過ぎたようだったと伝える。ガリアではホノリウスと交渉し、食料と定住地を保証される代わりにガッラ・プラキディアを解放し、ホノリウスに対抗する皇帝として立てられたヨウィヌスと戦う取り決めが成立した。アタウルフは413年にウァレンティアでヨウィヌスを攻撃して捕らえ、ホノリウスの総督に引き渡した。しかし西ゴート族がガッラ・プラキディアの引き渡しを拒んだため、協約は無に帰した。ホノリウスは食料の供給をやめ、困窮した西ゴート族が南ガリアを去るものと見込んだ。ところが、マッシリアの攻防でアタウルフが負傷しながらも、一行はナルボ、トロサ、ブルディガラを征服した。
414年1月、ナルボでガッラ・プラキディアとローマ式の結婚をして、ゴート人やローマ人を驚かせた。この結婚は、ローマ帝国をゴート族のものにする意図はなく、ゴート族の力で帝国を刷新しようとする王の意志を示すものだったとされる。オロシウスによれば、その意志は王妃の説得によるものだったという。同年、テオドシウスという名の息子が生まれたが、生後間もなく死去した。
プラキディアはマギステル・ミリトゥムのコンスタンティウス3世の許嫁であったため、コンスタンティウスはこの結婚を機にアタウルフへの攻撃を始めた。アタウルフは先王アラリックに倣い、アッタルスの呼びかけに応える形で彼を再びローマ皇帝に立てたが、コンスタンティウスがアルルを拠点に南ガリアの港を封鎖したため、西ゴート族の困窮は甚だしくなった。415年にアタウルフは民を率いてスペインへ向けてガリアを去らざるを得なくなり、バルセロナに至った。息子のテオドシウスはこの地で生まれたともいわれる。同年晩夏、412年にアタウルフが処刑したサルスの部下による復讐にあい、バルキオで暗殺された。王宮の厩で、側近の一人に襲われたとも伝えられる。
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