伝記
シゲリックは、5世紀の西ゴート族の王である。生年は分かっておらず、415年8月22日に没した。わずか7日しか在位しなかったことで知られ、名はゴート語で「勝利の王」を意味するとされる。ローマ軍に仕えた貴族サルスの兄弟で、ゴート人の貴族集団のうちアマル家に属した。
415年、先王アタウルフがバルセロナの王宮の厩で刺客に致命傷を負わされて亡くなった。刺客は、かつてアタウルフに討たれた宿敵サルスの忠実な部下だったとみられている。アタウルフはローマ帝国との協調を選んだ王であり、死の間際には、自分の兄弟を後継に推し、ガッラ・プラキディアの解放とローマとの友好を勧めたともいわれる。しかしサルスの一派は、先王の兄弟ではなく、サルスの兄弟であるシゲリックを直ちに王位に就けた。これは、ゴート人の継承の伝統に反するものだったとされる。サルスはアタウルフによって処刑されていたため、シゲリックはアタウルフへの復讐を誓っており、暗殺に関与した可能性もあるが、はっきりしない。
王となったシゲリックは残酷な君主であったと伝えられる。アタウルフが先妻との間にもうけた6人の息子をすべて殺させた。また、アタウルフの未亡人でローマ皇帝ホノリウスの姉妹であるガッラ・プラキディアを辱め、馬に乗った自分の前を、ほかの捕虜たちに混ぜて12マイル以上も徒歩で歩かせた。ローマ帝国に敵対する政策をとり、遠征も計画したという。
この争いの背景には、西ゴート族の内部に、ローマとの平和に傾く一派と、部族固有のあり方やローマからの自由、ローマとの戦いを重んじる一派とがあったことがある。アタウルフは、何度かの揺れののちに前者を選んだ。これに加えて、王家であるバルト家と、サルスの一族とのあいだには古くからの敵意があった。サルスはゴートの貴人で、多くの同族と同じく長くローマの軍務に就き、ローマの将軍スティリコの近くにいた人物とされる。最後は皇帝ホノリウスに対抗して簒奪者ヨウィヌスのもとで戦った。両家の反目は深く、アタウルフはイタリアからガリアへ向かうサルスを、わずか18本の槍とともにいたところを、1万の兵で襲って滅ぼしたと伝えられる。シゲリックがバルト家の子らを殺し、プラキディアを苛酷に扱ったのは、この憎しみの表れとされる。
しかし即位から7日目、アタウルフの親族ワリアを支持する者たちによって殺害され、ワリアがあとを継いだ。アタウルフやワリアはバルト家に属し、シゲリックはそれと対立するアマル家の出であった。簒奪による短い治世だったこともあり、バルト朝の王の系列にただ一人入らず、西ゴート王の一覧に載らないものもある。
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