HISTORICAL PERSON · 2018年没

アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー

インドの政治家。第13代・第16代首相を務め、インド大衆連盟、ジャナタ党、インド人民党の創設に関わった。詩人として詩集も出版した。

生涯
2018年没
死亡地
インド(デリー / ニューデリー)
出生地
インド(グワーリヤル)
出典
世界地図
インド(デリー)

伝記

アタル・ビハーリー・ヴァージペーイーは、1924年12月25日にマディヤ・プラデーシュ州のグワーリヤルで生まれたインドの政治家である。日本ではバジパイとも表記される。カニャークブジャのバラモンの家に生まれ、父クリシュナ・ビハーリーは同地の学校の教師だった。小学校と高校をグワーリヤルで終え、同地のヴィクトリア大学でヒンディー語、英語、サンスクリット語を学んで卒業した。修士課程では、旧グワーリヤル藩のシンディア家から月75ルピーの奨学金を受け、カーンプルの大学で政治学の学位を得た。12歳だった1939年に、民族義勇団の一員となり、のちにジャーナリストとしても活動した。詩を趣味とし、詩人として詩集も出している。

1951年にインド大衆連盟を創設し、1968年から1972年または1973年まで総裁を務めた。1957年の第2回総選挙で下院議員に選ばれ、その後も10期にわたって議席を得たほか、1962年と1986年には上院議員にもなった。1977年にはインディラ・ガンディーの強権政治に反発して、国民会議派の反インディラ派などとジャナタ党を創設し、同年の選挙で国民会議派を破って政権を獲得した。その政権で1977年から1979年まで外相を務め、対立が続いていた中国やパキスタンへの訪問を実現した。政権が党の分裂で崩壊すると、1980年にインド人民党を創設し、初代総裁に就いた。同党は1984年の総選挙では2議席にとどまったが、1989年には85議席を得て躍進し、1993年7月からは下院の野党院内総務を務めた。

1996年の総選挙で人民党が第一党になると、大統領から組閣を求められて首相に就任したが、議会の信任を得られないと見て、わずか2週間で総辞職した。1998年の解散総選挙で再び第一党となり、3月に他党の支持も得た連立内閣を発足させた。同年5月には1974年以来24年ぶりに核実験を行って世界を驚かせ、パキスタンも半月後に核実験を行った。アメリカやイギリス、日本は制裁を課したが、国内の世論は実験を支持し、政権の支持率は上がった。1999年2月にはパキスタンのナワーズ・シャリーフ首相とラホールで会談してラホール宣言を発表したが、5月にカシミールのカルギルで両軍が衝突し、関係改善には至らなかった。同年4月に連立を離れる政党が出て、信任決議が否決されたため一度辞任したが、総選挙で与党連合が過半数を得て首相に返り咲いた。

2001年12月に国会議事堂が襲撃されると、パキスタンの関与を非難し、軍に「決定的勝利」への備えを求めるなど、一触即発の状況となった。だが2003年4月にカシミールで和解の意向を示し、2004年1月には南アジア地域協力連合の首脳会議で、ムシャラフ大統領との首脳会談を実現して、複合的対話の開始に合意した。2003年6月には中国を訪問し、国境貿易を再開する覚書に署名した。経済では自由化路線を引き継ぎ、「第二世代の経済改革」を掲げて高い成長を実現したが、2004年5月の総選挙では国民会議派中心の政党連合に敗れて首相を辞し、2005年12月に政界引退を表明した。2018年8月16日、肝臓や尿管の感染症などのため、ニューデリーの病院で死去した。ヒンドゥー・ナショナリストとされる一方、穏健派として敵対者からも一目置かれた。

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