HISTORICAL PERSON · 2018年没

アレクサンドル・ザハルチェンコ

ウクライナからの独立を宣言した自称国家『ドネツク人民共和国』の元首長。2014年に首長選挙で勝利し、2018年にカフェで爆弾の爆発に巻き込まれ死亡した。

生涯
2018年没
死亡地
ウクライナ(ドネツィク州 / ドネツィク)
出生地
ウクライナ(ドネツィク)
出典
世界地図
ウクライナ(ドネツィク州)

伝記

アレクサンドル・ウラジーミロヴィチ・ザハルチェンコは、1976年6月26日にウクライナのドネツクで生まれ、2018年8月31日に亡くなった分離主義者の指導者である。2014年5月11日にウクライナからの独立を宣言した自称国家「ドネツク人民共和国」の元首長と、閣僚評議会議長(首相格)を務めた。ロシアの後ろ盾のある反政府勢力の指導者として、ロシア側から据えられた人物と見られている。

ドネツィク国立工科大学を卒業し、鉱山の電気技師として働いたあと、鉱業でビジネスを始めた。内務省の法科の学校でも学んだが、アルコール依存症で中退したと伝えられる。妻ナタリアとの間に4人の息子がいる。実業家としての活動のかたわら、地域党の活動にも関わった。ハリコフに設立された親ロシア派の民兵組織オプロートは、表向きは格闘技団体の体裁だったが、そのドネツク支部長に就いた。

2014年4月16日、ウクライナの親欧米派の運動の混乱のさなかに、オプロートのメンバー20人を率い、こん棒やライフル、自動火器で武装して、ドネツク市議会の事務局を占拠した。ドネツクの状況に関する住民投票を要求した。5月には「ドネツクの軍司令官」に任命され、以来、ウクライナの中央政府に対する反乱で主導的な役割を果たした。7月22日にウクライナ政府軍との戦いで腕を負傷し、8月下旬にはドネツク側の国防省から少将への昇進が発表された。2014年8月7日に、アレクサンドル・ボロダイの後を継いで首相に就任し、ボロダイは副首相になった。ボロダイは、「蜂起が草の根の現象であることを西側に見せようとする」ロシア政府の努力のために、ドンバス出身のザハルチェンコが自分の後任になったと述べている。同年9月には、ドンバスの戦争の平和協定に合意したミンスク議定書で、ドネツク側の主任交渉者を務めた。11月2日の選挙で78.93パーセントの票を得て当選した。選挙の翌日、オプロートの指導者エフゲニー・ジリンはロシアのテレビ局で、ザハルチェンコが支部長に任命された経緯や、ドネツクの指導者としての立候補がモスクワから奨励された経緯を語った。

2015年2月には、ミンスク2の平和協定に同意し、これを「大きな勝利」と呼んだが、署名の後、ウクライナ当局が条件に違反すれば、ハリコフを奪い、デバルツェボのウクライナの大隊を破壊すると述べた。2月17日に、デバルツェボの戦いの終盤で、脚を負傷した。政治的な立場としては、同性愛嫌悪の発言を繰り返し、死刑を支持していた。ドンバスでの戦争中のドネツク人民共和国では、強制失踪の事例が多数あったと指摘され、2014年12月までに約632人が分離主義勢力に違法に拘束されていると推定された。ジャーナリストのスタニスラフ・アシエフが2017年に拉致された件では、当初所在を知らないと否定した政府が、のちに拘留中でスパイの容疑がかけられていると認めた。

2018年8月31日、ドネツクのプーシキン大通りにあるカフェで起きた爆弾による爆発で死亡した。ドネツクの財務大臣も負傷した。ドネツク側とロシアはウクライナ政府を非難したが、キエフ側は非難を認めず、内部の争いの結果だと述べた。葬儀は9月2日に、ドネツクのオペラ・バレエ劇場で予定され、3日間の追悼期間が宣言された。ロシアのプーチン大統領は、家族に哀悼の意を表し、この死を「卑劣な殺人」と呼んだ。

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