HISTORICAL PERSON · 2018年没

ヘンリック (デンマーク王配)

デンマーク女王マルグレーテ2世の王配。結婚前はフランスの外交官で、フランス領インドシナで幼少期を過ごし、ソルボンヌ大学で法律と政治学を学んだ。

生涯
2018年没
死亡地
デンマーク(デンマーク首都地域 / フレデンスボー城)
出生地
フランス共和国(タランス)
出典
世界地図
デンマーク(デンマーク首都地域)

伝記

ヘンリックは、1934年6月11日、フランスのジロンド県タランスに生まれた。本名はアンリ・マリ・ジャン・アンドレ・ド・ラボルド・ド・モンプザで、のちにデンマーク女王マルグレーテ2世の王配となる人物である。9人兄弟の2番目で、長男にあたり、姉が1人、弟が3人、妹が4人いた。父は仏領インドシナで家業の利益を見ており、幼い日の5年間をハノイで過ごした。1939年に一家はフランス南西部のル・カイルーへ戻り、第二次世界大戦の間はそこで暮らした。

1947年にボルドーのイエズス会系の学校へ進み、1950年に再びハノイへ渡った。情勢の不穏が増すなか、家の土地を守るためにベトミンと戦うことになったという。1952年にハノイのフランス人学校の高校を卒業した。もとはパリ音楽院でピアニストを志していたが、父の望みに沿う進路を選び、1952年から5年間、ソルボンヌ大学で法律と政治学を、国立東洋言語文化研究所で中国語とベトナム語を学んだ。1957年には香港、1958年にはサイゴンにも留学している。

1959年から1962年までアルジェリア戦争でフランス軍に従軍し、その後フランス外務省に入った。1963年から1967年までロンドンの大使館で書記官を務め、この時期にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学んでいたデンマークのマルグレーテ王女と出会った。二人は1年ほど内密に交際し、ヘンリックが求婚したと伝えられる。1967年6月10日に結婚し、名前をデンマーク風のヘンリックに改め、カトリックからプロテスタントへ改宗した。フランス国籍も放棄してデンマーク国民となった。母語はフランス語だったが、結婚後まもなくデンマーク語を身につけた。それでも強いフランス語訛りは国民の冗談の種になった。英語、中国語、ベトナム語も話し、フランス語の書籍をデンマーク語に翻訳して出版している。夫妻は2男をもうけ、長男が現国王フレデリック10世、次男がヨアキムである。

1972年1月14日にマルグレーテが即位すると、デンマーク史上初の男性の王配となった。務めの定めがなく、自らを女王の支え手であり助言者であると位置づけた。しかし称号への不満は消えず、王でなく王子の称号であることをたびたび口にしたとされる。2002年には、元日の行事で不在の女王に代わり息子のフレデリックが主催役を務めたことをきっかけに、押しのけられ屈辱を受けたと感じてフランスのカイクス城へ向かった。ぶどう酒づくりや詩作にも親しんだ。

2016年1月1日に公務から退いた。2017年8月には、立場の不平等を理由に女王と同じ墓所への埋葬を望まないと発表され、翌9月には認知症を患っていることが公表された。2018年1月に体調を崩してエジプトから帰国し、コペンハーゲン大学病院に入院した。長男は平昌オリンピックのため訪れていた韓国から予定を切り上げて帰国した。2月13日、本人が最期の日々を過ごしたいと望んだ場所へ移され、肺の感染症のため、妻と二人の息子に見守られて83歳で亡くなった。遺体は火葬され、遺灰の半分はデンマークの海に散骨、残りは王室邸宅の敷地内に埋葬されることになった。王室は本人の遺志を尊重したのである。

これに先立つ2008年4月30日、女王は夫の実家に因む「モンペザ伯」の儀礼的称号を二人の息子に授けており、この称号は息子たちとその男系子孫が帯びることになった。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物