HISTORICAL PERSON · 421年没

恭帝 (東晋)

東晋の第11代で最後の皇帝で、孝武帝の次男。英明で、知的障害とされる兄の安帝を補佐して守った。劉裕に擁立されたが傀儡で、420年に禅譲して東晋は滅亡し、翌年に零陵王として暗殺された。

生涯
421年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

恭帝は、東晋の第11代にして最後の皇帝である。諱は徳文、字も徳文とされ、孝武帝の次男として386年に生まれた。母は孝武帝の側室の陳帰女で、四年前に生まれた長兄は後の安帝にあたる司馬徳宗である。安帝は言葉を発することも、衣服を着ることも、空腹か満腹かを伝えることもできないほどの重い知的障害があったとされる。これに対して徳文は幼い頃から英明だと評され、390年に母を亡くしてからは、兄の世話をするのが習慣になっていた。孝武帝には他に男子がなく、安帝は387年、五歳で皇太子に立てられた。

392年に琅邪王に封ぜられた徳文は、のちに中軍将軍・散騎常侍となり、398年には衛将軍・開府儀同三司、翌年には侍中・領司徒・録尚書六条事に任じられた。ただし官職は高くなっても実権はなく、権力は叔父の会稽王司馬道子、続いてその子の司馬元顕の手にあった。若い頃には、琅邪王として藩国にいた時に弓取りに馬を撃たせて楽しんだが、馬は国姓の司馬に通じて縁起が悪いと諫められて後悔したという話が残る。一方で篤実な仏教徒で、千万銭を費やして高さ6丈の金仏を造り、瓦官寺まで10里余りを歩いて仏像を迎えたとも伝えられる。

402年、桓玄が司馬元顕を倒して権力を握り、徳文は太宰となったが、翌年に桓玄が安帝を廃して楚を建てると、石陽県公に降格された。桓玄は安帝と徳文を手元に置いて監視し、尋陽へ移したのち江陵に移した。404年に劉裕が挙兵して桓玄を滅ぼし、安帝が復位したが、同じ年に二人は桓玄の甥の桓振の手に落ちた。桓振は桓玄の幼い子の桓昇が殺された報復として安帝を処刑しようとしたが、徳文が、自分も安帝も桓昇の死に関わっていないと切々と訴えて、ようやく思いとどまらせたとされる。405年初めに桓振が敗れ、二人は建康に戻った。徳文は琅邪王の爵位を回復し、大司馬・徐州刺史となったが、実権は劉裕の手にあった。

劉裕が勢力を広げるなかで、徳文は名目上の栄誉を受け続けた。416年、劉裕の後秦遠征に従軍して洛陽に赴き、西晋の歴代皇帝の陵墓を拝謁した。翌年に北伐軍が引き返すと帰還している。やがて簒奪を企てた劉裕は安帝を殺して徳文を帝位に就けようとし、徳文は常に安帝のそばにいて守ったため、毒殺を狙った刺客も機会を得られなかった。しかし419年の年明けごろ、徳文が病で自邸にいた隙に、劉裕の刺客によって安帝は殺された。劉裕は徳文を皇帝に擁立した。これが恭帝である。

恭帝の治世は短く、実権はなかった。419年春に妻の褚氏を皇后に立て、劉裕を宋王に進めた。翌年、劉裕の使者に禅譲を迫られた恭帝は、示された禅譲の詔の草案を自ら書き写し、宮殿を出て琅邪王時代の旧邸に移った。その三日後、劉裕が即位して南朝宋を建て、東晋は滅んだ。この時に恭帝は、晋はとうに滅んでいたはずで何を恨むことがあろうかと語ったと『晋書』に記される。恭帝は零陵王に封じられたが、永初2年(421年)9月に殺害された。毛布で窒息させられたともいわれ、また劉裕の兵に毒を飲んで自殺するよう命じられたが、仏教では自殺者は人に転生できないとして拒んだため撲殺されたともいわれる。1960年には南京市北部の富貴山で、その玄宮を記した石碣が見つかり、沖平陵の遺跡と考えられている。また、皇后の兄の褚季之と弟の褚淡之が劉裕に通じ、恭帝に子が生まれるたびに殺害したともいわれ、少なくとも二人以上の子が殺されたとされる。娘の司馬茂英は、宋の少帝の皇后となった。

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