伝記
コンスタンティウス3世は、西ローマ帝国の皇帝で、421年にごく短い期間だけ在位した。421年9月2日に亡くなった。生年は分からない。モエシアのナイスス(現在のセルビアのニシュ)に、イリュリア系の家に生まれ、皇帝ホノリウスのもとで優秀な軍人として頭角を現した。同時代の歴史家オリュンピオドロスは、目が大きく、首が長く、頭が幅広いと描写し、人前では陰気でよそよそしいが、宴席では「愉快で機知に富んだ」振る舞いをしたと記している。役者の真似をして場を盛り上げたという話もあり、快活で愛想のよい人柄だったと伝わる。
411年には軍司令官(マギステル・ミリトゥム)の地位に達していた。同じ年、ホノリウスに送られ、407年にブリタニアで皇帝を名乗ったコンスタンティヌス3世の反乱の鎮圧に向かった。彼は反乱軍の拠点アルルに達し、コンスタンティヌスに背いていた将軍ゲロンティウスの軍を破ってから、市を包囲した。コンスタンティヌスは、北ガリアで兵を集めていた将軍エドビクスの帰還を待って降伏を拒んだが、エドビクスが戻るとコンスタンティウスはこれをたちまち破った。ライン川を守っていた軍が簒奪者ヨウィヌスを支持したことで、コンスタンティヌスは降伏に追い込まれた。コンスタンティウスは、聖職に就いて安全に隠退できると約束しながら、彼を投獄し、ラヴェンナへ送る途中で斬首させたという。ゲロンティウスはヒスパニアで自殺し、ヨウィヌスは西ゴート王アタウルフに破られて、ホノリウスの敵は次々に片づいたが、ブリタニアは取り戻せなかった。
その後もアフリカ総督ヘラクリアヌスが反乱を起こして穀物の供給を止め、413年の初めにローマ近郊へ攻め寄せたが、コンスタンティウスはこれをウトリクルムで破り、ヘラクリアヌスは逃げたのち捕らえられて殺された。415年には、西ゴート王アタウルフを兵糧攻めにして、ガリアから撤退させた。翌416年には皇帝プリスクス・アッタルスを捕らえ、西ゴート族との和平交渉では、アラリックによるローマ略奪のときに連れ去られてアタウルフの妻となっていた、ホノリウスの妹ガッラ・プラキディアを、返還させた。西ゴート王ワリアは、食糧の供給と引きかえに、ヴァンダル族などとの戦いを約束した。おかげでコンスタンティウスは、417年に北西ガリアのバガウダエの反乱を終わらせ、420年までにヒスパニアとガリアの大部分を取り戻した。
こうした功績に報いるため、ホノリウスは彼に多くの栄誉を与えた。執政官には三度、414年、417年、420年に任命し、妹ガッラ・プラキディアとの結婚も取り計らった。二人の間には、のちのウァレンティニアヌス3世と、娘ユスタ・グラタ・ホノリアが生まれた。将軍が帝位を支える時代にあって、その地位と手腕は、先のスティリコに並ぶ大きな影響力を彼に与えたといわれる。
421年2月8日、ホノリウスは彼を共同皇帝と宣言した。だが東ローマ皇帝テオドシウス2世が、これを承認せず、激怒した彼は軍団を組織してコンスタンティノープルへ攻め込もうとした。しかし健康を損ない、東方への遠征の準備が整う前の9月2日、在位7か月足らずで亡くなった。歴史家グラントは、彼が生きていれば西の没落を遅らせたかもしれないが、それは東の同盟者を傷つけるという代償を払ってのことだろうと述べる。未亡人のガッラ・プラキディアは子らとコンスタンティノープルに逃れ、ホノリウスが423年に没すると、幼い息子がウァレンティニアヌス3世として後を継いだ。