伝記
ジョン・ワッツ・ヤングは、1930年9月24日にカリフォルニア州サンフランシスコで生まれたアメリカ航空宇宙局の宇宙飛行士で、海軍大佐である。父ウィリアム・ヒュー・ヤングは土木技師で、大恐慌のなかで職を失い、一家は1932年にジョージア州カーターズビルへ、1936年にフロリダ州オーランドへ移った。5歳のとき母が統合失調症と診断されて州立病院に入り、真珠湾攻撃の後は父が海軍の建設部隊に加わったため、弟のヒューとともに家政婦の世話を受けた。オーランド高校ではフットボールや野球、陸上競技に出場し、1948年に卒業した。
ジョージア工科大学に海軍予備役士官訓練課程の奨学金で進み、1952年に航空工学の学位を成績2位で取得して、6月6日に海軍少尉へ任官した。朝鮮戦争中は駆逐艦ローズに乗り組んで日本海で任務に就き、1953年から飛行訓練を受けて、1954年12月に航空徽章を得た。1959年に海軍テストパイロット学校を2位の成績で卒業し、F-4ファントムIIの兵装システムの試験に携わった。1962年にはF-4で高度到達時間の世界記録を二つ樹立し、「ハイジャンプ計画」での成績で知られるようになった。同年9月、航空宇宙局の第二期宇宙飛行士に選ばれた。
1965年3月23日、ジェミニ3号でヴァージル・グリソムとともに打ち上げられた。ジェミニ計画初の有人飛行で、マーキュリー計画が一人乗りだったため、初の二人での宇宙飛行となり、約5時間で無事に帰還した。このとき味気ない宇宙食への不満から、内緒でサンドイッチを船内に持ち込んで食べ、安全面から批判されたが、宇宙食の食味向上が行われるきっかけにもなった。1966年7月18日にはジェミニ10号でマイケル・コリンズとともに飛行し、ランデブーやドッキング、船外活動を行って約3日後に帰還した。アポロ計画では、アポロ7号の予備の乗組員を務めたのち、1969年5月18日にアポロ10号の司令船パイロットとして、トーマス・スタッフォード、ユージン・サーナンとともに打ち上げられた。月着陸船のテスト飛行は他の二人が行い、5月26日に地球へ帰還した。
1972年4月16日、アポロ16号の船長として、司令船パイロットのケン・マッティングリー、月着陸船パイロットのチャールズ・デュークとともに打ち上げられた。一時は司令船の異常で月着陸が危ぶまれたが、リスクは少ないと判断され、ヤングとデュークに着陸許可が下りた。ただし安全のため、ミッションは1日短縮された。月着陸船オライオンは4月21日にデカルト高地へ着陸し、約71時間の滞在中に3回の船外活動を行った。その合計は20時間14分で、月面車も使われた。計94.7キログラムの月の石などを持ち帰り、4月27日に太平洋上へ着水した。
1981年4月12日には、スペースシャトル計画最初のミッションSTS-1で船長を務め、パイロットのロバート・クリッペンとコロンビアで打ち上げられて、4月14日に帰還した。1983年11月28日にはSTS-9の船長として再びコロンビアで飛び、初の6人での飛行で、初のスペースラブミッションとなった。ヤングはジェミニ宇宙船、アポロ司令船、アポロ月着陸船、スペースシャトルの4種を経験した唯一の人物で、計六度の宇宙飛行を行った。1976年に海軍を退役し、同局には42年間勤めて、2004年12月31日に74歳で引退した。2018年1月5日、肺炎の合併症によりヒューストンの自宅で死去した。87歳であった。
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