伝記
マルタ(マルタ・オブ・マルティロポリス)は、シリア系の修道士で、のちにメソポタミアのマイペルカト(メイアファラキン)の主教となった人物である。422年没とされるが、420年より前に亡くなったとも考えられており、没年ははっきりしない。生涯については三つの伝記が残り、ギリシア語のものが二つ、アルメニア語のものが一つあるが、記述はあいまいで食い違いも多く、復元には慎重さが要る。また、後世の同名の別人と混同され、マイペルカトがティクリートの古名だと長く考えられたこともあった。
ローマ帝国東方の高官の子で、医術の教育を受けていたらしい。テオドシウス帝の治世にマイペルカトの主教となったとされ、381年のコンスタンティノポリス公会議と、383年(390年とも)のアンティオキアの会議にも出席し、後者ではメッサリア派が断罪された。コンスタンティノポリスの聖職者ヨハネス・クリュソストモスの友人でもあったという。
当時のペルシアの教会は、シャープール2世の迫害で大きな打撃を受けていた。その迫害をおこなった王の一人バフラム4世が死ぬと、マルタはアルカディウス帝が後継のヤズデギルド1世のもとへ送った使節団に加わった(399年から400年)。教会のためにコンスタンティノポリスを訪れた際には、皇帝がクリュソストモスの追放問題で多忙だったともいわれる。一方、新王は前王より好意的だったとされる。マルタは医術の知識で王の頭痛を癒し、その人柄と聖なる生活とあいまって信頼を得て、迫害の終結と教会再編の許しを得たと伝えられる。クテシフォンで会議が開かれ、イサクが首都の主教に選ばれた。この最初のペルシア行きの際に、迫害で殉教した多くの人々の聖遺物を町へ持ち帰ったとされ、そのため町はギリシア語でマルティロポリス、すなわち殉教者の町と呼ばれるようになった。
403年には樫の木の会議に加わり、クリュソストモスの罷免に至ったが、その中での役割は分かっていない。のちテオドシウス2世の使節としてペルシア宮廷に赴き、マギたちの反対にもかかわらず王の敬意を得て、両帝国の和平をまとめたともいわれる。クテシフォンでは新たな困難からイサクが投獄されていたが、マルタはアンティオキア総主教やエデッサ主教らが署名した書簡を携えて、王にニカイア公会議にならった教会会議の招集を説得した。この会議は410年にクテシフォンで、約40人の参加者を得て開かれ、マルタがもたらしたニカイア公会議の教会法が採択された。首都の主教は大都主教、のちにカトリコスと呼ばれ、隔年に主教会議を開くことが義務づけられた。ニシビス、アルビール、キルクークなど五つの大都も置かれ、東方教会の組織が定まった。王もその結果を承認し、国家が実施させると保証した。しかし王と教会の良好な関係は、ほどなく、キリスト教の司祭によるゾロアスター教の拝火壇の破壊と、スーサの主教アブダスがその再建費用の負担を拒んだことで、再びそこなわれた。それでもマルタは主導的な役割を果たし、この会議は東方教会の真の創設とみなされている。
著作には、ペルシアの殉教者の行伝、ニカイア公会議の歴史、ニカイア公会議の教会法のシリア語訳、典礼文、福音書の注解などが挙げられ、聖体や十字架、殉教者をたたえる賛歌も書いたとされる。ただし、そうした帰属には恣意的なものもある。カトリック、ギリシア正教、東方諸教会で聖人として崇敬され、祝日は12月4日である。
同じ年に亡くなった人物
- ヒスパニアのマキスマス (422年)
- 法顕 (422年没)
- カラト (422年没)
- ボニファティウス1世 (ローマ教皇) (422年没)
- 劉裕 (422年没)
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