HISTORICAL PERSON · 2019年没

エミリアーノ・サラ

アルゼンチン出身の元サッカー選手。ナントの中心選手として活躍したが、カーディフへの移籍のため乗った小型飛行機がイギリス海峡で消息を絶った。

生涯
2019年没
死亡地
フランス共和国(ジャージー / イギリス海峡)
出生地
アルゼンチン共和国(クルル)
出典
世界地図
フランス共和国(ジャージー)

伝記

エミリアーノ・ラウール・サラ・タファレルは、1990年10月31日にアルゼンチンのサンタフェ州で生まれたサッカー選手で、ポジションはフォワードである。生地はクルルーという町で、早産で生まれ、呼吸の問題のために走れなくなるのではと心配されたという。イタリアの旅券も持っていた。父はトラック運転手で、一家はのちにプログレソに移り、サラはそこで育った。インデペンディエンテのファンで、少年時代は、同国の英雄だったガブリエル・バティストゥータの映像を見て学んだ。

地元のサン・マルティン・デ・プログレソでプレーし、15歳のとき、スカウトの目に留まってコルドバ州のサッカー学校に移った。学校は、スペインのマジョルカとフランスのボルドーの提携先だった。2007年から2008年にかけては、スペインのクラブの下部チームで6試合に出場した。2009年にスペインのグラナダに住んでいたころ、同国人の選手の紹介でポルトガルの地域リーグのクラブに加わり、公式戦に1試合出て2点を挙げたが、突然、恋人が故郷で困っていると言って、アルゼンチンに帰った。20歳だった2010-11シーズンに、提携先のボルドーに移ってヨーロッパに渡った。

2012年2月8日、ボルドーで、クープ・ドゥ・フランスのオリンピック・リヨン戦に途中出場し、延長戦の105分に交代で入ってプロデビューした。しかし一軍に定着できなかったため、武者修行に出された。2013年にはナショナル(3部)のオルレアンに貸し出されて、37試合で19得点を挙げ、続いて7月2日にリーグ・ドゥ(2部)のシャモア・ニオールに期限付きで移籍した。シーズン後半の3月から調子を上げ、最後の12試合で11得点を挙げて、プロ初のハットトリックも達成した。シーズンを通じて全大会で20得点を記録した。ボルドーに戻っても出番が増えず、次はリーグ・アンのカーンに貸し出された。

2015年7月20日、リーグ・アンのナントに5年契約で完全移籍した。移籍金は100万ユーロだった。ナントでは、リーグ・アンで100試合以上に出場し、3シーズン続けてクラブの得点王になった。2018年10月20日のトゥールーズ戦ではハットトリックを達成し、これはナントにとって2006年以来のハットトリックだった。ナントの郊外の小さな町に住み、休日は友人と過ごしたり、保護した犬の散歩をしたりしていたという。カーディフへ移籍する際には、町を回って地元の人々一人ひとりに別れを告げたという。

2019年1月19日、2022年6月30日までの契約でカーディフ・シティへの加入が決まった。移籍金は、クラブ史上最高額の1500万ポンドだった。しかしその2日後の1月21日、ナントからカーディフへ向かうために乗った小型機の中から、家族や友人に「壊れそうな飛行機に乗っている」「すごく怖い」との音声メッセージを送った。ほどなくして飛行機は、英仏海峡のチャンネル諸島付近で消息を絶った。警察の捜索は1月24日に打ち切られたが、寄付を募った捜索が再開され、2月3日に水深約68メートルの海底で機体が見つかり、遺体は2月7日に収容されて、サラのものと確認された。死因は、当初は頭部の損傷と発表されたが、のちの検査で、墜落直前に一酸化炭素中毒に陥っていたことがわかった。2月9日、ナントはサラの背番号9を永久欠番にすると発表した。死去の3か月後には、父が心臓発作で亡くなった。

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