伝記
ロバート・ガブリエル・ムガベは、1924年2月21日に英領南ローデシアで生まれたジンバブエの政治家である。初代首相、第2代大統領を務め、1980年の首相就任から2017年の辞任まで長くこの国を率いた。ソールズベリー(現在のハラレ)の北東にある伝道団で育ち、父はマラウィ人と考えられている。カトリック教徒として育てられ、マリスト会やイエズス会の学校で学んだのち、17歳で教員資格を取った。南アフリカのフォートヘア大学で英語と歴史学を専攻し、この間に、のちにアフリカ諸国の指導者となるジュリウス・ニエレレやケネス・カウンダらと出会った。1951年に文学士の学位を得ている。
その後も南アフリカやタンザニアなどで働きながら学び、通信教育で経済学士をはじめ多くの学位を重ねたため、アフリカで最も教育水準の高い指導者とも評された。1958年にはガーナのアクラで師範学校に就職し、のちに最初の妻となるサリー・ハイフロンと出会った。1960年に南ローデシアへ戻るとマルクス主義に傾き、国民民主党に参加した。1963年には法律家ハーバート・チテポとともにジンバブエ・アフリカ民族同盟に加わり、チテポが党首となるとムガベは書記長に任じられた。1964年に逮捕・拘留されて10年間を獄中で過ごし、その間に法律を学んだ。1974年に釈放されるとモザンビークに出国し、中華人民共和国の軍事支援や毛沢東思想の影響を受けた。ジンバブエ・アフリカ民族解放軍を結成して、イアン・スミス率いるローデシア政府軍との武装闘争に入った。
1979年9月、イギリス政府がランカスター・ハウスで会議を開き、ムガベもスミスらとともに参加して、1980年2月の選挙実施が決まった。選挙は不正や疑惑に満ちたものであったが、ムガベ率いる同党は80議席中57議席を獲得した。1980年3月4日、ムガベは初代首相に就任した。政権の初期にはスミスら旧白人政権の指導者に寛容な態度で臨み、この融和策は称賛されて、1988年には第2回アフリカ賞を授与された。教育や医療に資金を充てた結果、低い乳児死亡率とアフリカ最高の識字率を達成したとされ、「ジンバブエの奇跡」と呼ばれた。1987年12月31日に大統領に就任し、1994年にはイギリスからGCBを授けられた。
しかし2000年代に入ると白人に対する不寛容な政策に転じ、白人農場の強制収用などで経済は崩壊した。2008年6月にはハイパーインフレーションが220万%に達したと記録されている。英連邦は2002年にジンバブエの資格を停止し、同国は2003年12月に脱退した。2008年の選挙で野党に敗れたとみられたが、結果の公表を拒み、野党勢力への弾圧を加えて批判を浴びた。対立候補ツァンギライが撤退して決選投票は不戦勝となり、同年6月にはGCBを剥奪された。同年9月に連立政権の合意文書に署名し、2009年には包括的政府が成立した。2013年7月の大統領選では61%の票を得て6度目の勝利を収めた。
2017年11月6日に副大統領のエマーソン・ムナンガグワを解任したことが契機となり、国防軍が事実上のクーデターに踏み切った。ムガベは11月21日に辞任した。2019年9月6日、シンガポールで老衰により95歳で死去した。反植民地闘争の英雄としてアフリカでは今も一定の敬意を払われる一方、長期政権は独裁と批判された。
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