伝記
リー・クアンユーは、1923年9月16日に生まれたシンガポールの政治家で、同国の初代首相である。「建国の父」として知られ、1965年にマレーシアから予期せず独立するという困難な状況で首相を務め、水や天然資源に乏しい小さな島を、高い生活水準を持つ金融の中心地へと変えたとされる。
自叙伝によると客家系華人の4世で、曽祖父のリー・ボクウェンは1862年に清の広東省から、イギリスの海峡植民地だったシンガポールに移民した。英語を話す家に生まれ、幼くして英語教育を受けた。祖父から華名のクアンユーとともに英語名も授けられている。こうした家は当時のシンガポールでは一握りのエリートで、「海峡華人」と呼ばれた。幼いころは中国語ができず、福建語の混じったマレー語で話しながらマレー人の子と遊んだ。本人は自分を「実用主義者」「マラヤ人」と称し、不可知論者であった。1950年にクワ・ゲオ・チューと結婚し、二男一女をもうけた。長男のリー・シェンロンは、2004年に首相に就いている。
ラッフルズ学院を経てラッフルズ大学で学んでいたが、1942年に日本軍がシンガポールを占領してイギリス植民地政府が崩壊すると、大学は閉鎖された。タピオカから作った接着剤を闇市で売って暮らしたという。本人の回想では、華僑粛清事件の際に集合場所へ集められかけたが、友人宅に1日半ほど身を隠していて難を逃れた。1943年から1944年までは、日本側の報道部で、連合国の通信の傍受内容を翻訳する仕事に就いた。戦後の1945年にイギリスへ留学し、ケンブリッジ大学のフィッツウィリアム・カレッジで法律を学んで1949年に首席で卒業した。短期間、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスにも通い、帰国して弁護士となった。
勤め先の上司が親英政党の候補として立法審議会選挙に出た際に運動員を務めたことが、政治との出会いである。労働組合や学生自治会の法律顧問となって華人系の住民と結びつき、1954年11月21日に英語教育を受けた中産階級の仲間とともに人民行動党を創設して、書記長となった。容共的な労働組合との連携は、本人が「政略結婚」と呼ぶものであった。1955年に初当選し、野党指導者として政権と対峙したが、1957年には容共派に党権を奪われて一時、書記長の座を追われたが、政府が共産主義者の一斉検挙を命じたため復帰した。1959年6月1日の総選挙で党は51議席中43議席を得て自治権を獲得し、リーは6月3日に初代首相となった。住宅問題には住宅開発庁を設けて取り組んだ。
1961年にマラヤ連邦のラーマン首相が新たな連邦の形成を提案すると、リーはマラヤ連邦との合併を目指し、1962年9月の国民投票では投票者の70%が支持した。1963年9月16日にシンガポールはマレーシアの一部となったが、マレー人を優遇する政策に反対して「マレーシア人のためのマレーシア」を唱えたため、連邦政府との関係は悪化した。1964年7月21日には華人とマレー人が衝突して23人が死亡した。1965年8月7日、リーは分離に合意する文書に署名し、9日に独立を宣言した。生中継の最中に自制を失って泣き出す場面もあったという。独立後は英語を公用語とする言語政策、厳格な法治、汚職防止、能力主義を進めたが、一党優位の体制や言論統制には批判もある。2015年3月23日に世を去った。
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